62話 切り分けた双子
月日は逃げ水のように過ぎ去り、季節は夏ノ二に入った。
暑さは丁度この辺りが盛りで、マハルドヮグ山脈を覆う梅雨前線もようやく峰を降り始める。青く澄んだ空は突き抜けて目に眩しく、立ち上がった入道雲は眩い白さで太陽を遠く受け止めていた。
スペルアベル平原はまさに炎暑の候、肌を撫でる風さえも茹だる熱風であった。前庭の木陰に立つスークレイ女伯は、気休めの避暑地で篭手越しに握った扇を開きぱたぱたとあおいで、首元の熱を冷ましている。
こう熱くては汗ばむばかり。逃れようのない気温の煩わしさに虫の居所は悪かった。
彼女の自治領は現在、陥落か否かの瀬戸際にある。
この地に退がり、セルレイの邸を拠点に第二戦線を敷いてから数日、危ぶまれていた最悪の事態は幸いにも未だ起こっていない。それは結構なことだが、憂いが先延ばしになっただけとも言えた。
今日が無事でも明日。
明日が無事でも明後日……終わりなく気を揉む日々が続く。
実際、ガントールとオロルが無理を通してスークレイを平原に引き退らせて以降、平原でのトガの目撃数はぐんと増えている。
晴れ渡る夏の空とは裏腹に、女伯の心には重い雲が垂れ込めていた。忌々しく睨む南方は入道雲も黒く煤けて、待ち受ける脅威の象徴のように映る。
四代目長女国家ラーンマクが未だ戦線を維持しているのは、敵勢力が肩透かしだったわけでも、杞憂でもない。
地平の向こうでは日を追うごとに勢いを増す号砲が轟き、街に出れば負傷した戦士の姿を見かける。戦線の膠着状態は崩れている……それも劣勢で。
姉達はきっと今まさに、死力を尽くし戦っている。
迫りくる敵から厳しい防衛戦を続け、その討ち漏らした敵がここまで溢れて来ている。
討伐隊もここのところ出ずっぱりだった。
こぉぉぉん……。と、青空を裂くように鏑の音が響く。
哨戒に走る討伐隊が平原内部でトガの侵入を知らせる矢を放ったのだ。弓兵の任に着いている兵は、会敵した際にこうして空に向け、細工を施した矢を射る。
この矢は鏑矢といい、言葉通り鏑という鳴り物を備え付けた矢を放つ。射た際に風を取り込み、独特の音を鳴らす。
スークレイは音の方へ視線を向ける。戦闘行為は既に行われているはずだが、街からはまだ遠いようだ。
「首無し、向かいなさい」
扇を右手に持ち替え、口元を隠して指示を飛ばす。
門の前で待機していたウツロは緩慢な動きで門から離れると、一度玄関の方へ振り返る。
「なにをしているの? 急がなければ兵に損耗が出るわ」
スークレイは扇を閉じ、篭手を纏った左手で南を示す。
「そのための魔導具でしょう」
渋々といった態度で、ウツロは指示に従った。
駆け出す鎧の後ろ姿を見届ける者がいた。
あの時ウツロが振り返ったのは彼女の身を案じたのだろう。
玄関広間の暗がりには、しゃがみ込んで見つめ返すアーミラがいた。
「……わかってます……」
アーミラは、もう姿の見えないウツロに向けて呟く。
スークレイから「期待していない」と冷たく突き放されたあの日から、アーミラは杖の中に潜り引きこもっていた。『好きにしろ。』『期待していない。』――その言葉に心挫かれ、塞ぎ込んだのだと、邸にいる誰もが思っていた。
しかし、玉磨かざれば光なし……彼女もまた神に選ばれし継承者なのだ。
この程度の逆境に耐えられないのなら、そもそも前線へ向かいはしない。
陽の届かぬ暗がりに潜むアーミラの青い瞳には、決意の火が燃えていた。
「スークレイさん――」
日向へ出たアーミラは女伯の背に声をかける。スークレイは前線に顔を向けたまま、興味のなさそうな三白眼で一瞥する。
「――私も行きます」
アーミラの宣言。その声に震えはなかった。
スークレイは扇で口を隠して応えた。
「……どうぞ」
促されてアーミラは前庭に歩を進める。
開けた場に立って、目を閉じて息を吸い……吐く。集中に研ぎ澄ました面持ちは凛々しく、平原を見霽かすと左手に携えた神器――天球儀の杖を静かに持ち上げた。
弓構えである。
ここからのアーミラは、まるで別人のようだった。
取懸けに親指で不可視の弦を引っ掛け、人差し指、中指も合わせた三本で弦と矢を保持してみせる。はじめは摘んでいる矢も目には見えないものだったが、撚られた魔力によって発生した燐光は渦を巻き、質量を持ち始めた。
杖を握り直し、弓を保持する左手の形を整えると、物見に入る。顔を南に向け敵の位置を見定めると、上体をうんと上に反らした。弧を描く軌道を読み、それだけ高く遠くに狙いを定めたのだ。
きりりと指先に摘んだ弦が限界まで引かれたとき、アーミラは矢を放す。
張力によって打ち出された光の矢は目で追えぬ速さで邸から飛び出すと青空に溶けて消える――次の刹那、南方の空を覆う槍の雨となってトガに降り注ぐ。
側で見ていたスークレイは言葉もなく立ち尽くす。無能と判断した内地育ちの娘が前線でも類を見ない迎撃の兵戈へ変身した。だが、あの量ではトガだけではなく討伐隊にも矢の雨が……いや、豪雨が放り注いだだろう。
「貴女、それでは味方まで……!」
「平気です」アーミラは遮るように言う。「討伐隊には当ててません」
碧眼の双眸は女伯を見つめ返し、澱みなく断言する。
砂埃が巻き上がり地平線が隠れる。少し遅れて邸に届く驟雨の音……それは当代次女継承者が響かせた初陣の鐘でもあった。
❖
ウツロはスークレイの指示に従い平原南部を目指し街を駆けていた。
馬車の往来が激しい目抜き通りを難なく通過し、外縁を囲う木製の柵を飛び越えたとき、空から幾つもの風切り音が背後から迫り頭上を通り過ぎていった。
誰もが白昼に飛来した流星を見上げ、その尾が伸びた弾道の軌跡をなぞる。
それは邸から放たれた、トガを伐つ光の矢である。
アーミラが放ったものだということをウツロは知っていた。というのも、スークレイに突き放されたその晩、ウツロと話していたのだ。
月日は少し遡る……。
「――あんなのが……ガントールさんの妹なんて……」
アーミラは床に尻をつき膝を抱え、がっくりと項垂れる。
女伯が邸の指揮権を掌握した日の夜のこと、アーミラに手を引かれ、ウツロはその日始めて杖の中へ招かれた。
内側に広がる空間は二階建ての構造で、地上階は果てしなく続く書架が立ち並び、地下は対照的にこぢんまりとした私室がある。今はアーミラの隠れ家となっていた。
驚異の部屋。アーミラは姿勢を崩し片膝に身を寄せると、項垂れた頭を上げてウツロを眺める。ウツロは特段驚く様子はない。杖の中に身を沈めたときも慌てる様子はなかった。……先代も、ウツロをここに入れたのかな……。
ウツロは無い首を回して部屋をぐるりと見回すと、書の積まれた文机に転がる手頃な炭の棒を見つけた。おもむろに手に取り、アーミラの傍にしゃがむ。
――見た目はとても似ていたな。
床に炭を擦り、そう書いた。女伯とガントールのことを言っているのだ。
「顔は本当にそっくりでしたね。姉妹と言っていましたが、まさか切り分けた双子とは」
ウツロはアーミラの言葉に何か引っかかったようで、すぐに問い質した。
――『切り分けた』とは?
「あれ、見ていないんですか?」アーミラはわざとではないが小馬鹿にしたような返答になる。「左腕です」




