61話 スークレイ女伯
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さらに二日が経った昼飯前。
夏も盛りの暑い日差しが爛々と平原を焼き、前庭では急な客人に何やら騒がしくしていた。
それにアーミラが気付いたのは随分遅れてからのことで、継承者の神器である天球儀の杖の中――驚異の部屋――から出て外界の喧騒を聞きつけ、邸の窓から下の様子を眺めると、ガントールが戻って来ていた。
――ガントールさんが帰ってきた!
アーミラは喜び、階段を駆け降りる。
しかし段を降りていくうちに胸中は幾つもの不安が過ぎって、玄関広間にたどり着いた頃には眉は下がっていた。
――……なんで、一人だけ……? そういえば何だか騒がしかった……確か、状況が悪くなれば戻ってくるって言ってたっけ……。
玄関を潜る頃には足取りはすっかり重くなっていた。
胸元に手を寄せて、心配そうに様子を見る。
前庭の騒がしさはある程度落ち着いていたが、ここまでガントールを乗せて走ってきたであろう騎馬隊の馬は興奮に鼻息も荒く、桶に汲んだ水を飛沫を立てながら飲んでいる。余程急いで来たのだろう、体力の消耗を見て馬小屋からは交代の馬が入れ替わりに連れ出されていた。
兵達も声を張り上げて邸と前庭を駆け回り、残る雑務の処理に忙しくしている。
討伐隊に囲まれて輪の中央にいるのはやはりガントールだ。彼女の背の高さが幸いして顔を確認できた。何やら話し込んでいる様子だが、声は掻き消されて状況が掴めない。……オロルの姿が見えないのは、背が低いから隠れてしまっているのか、或いは、問題が起きてガントール一人だけが戻ってきたのか……アーミラはそっと人波を搔い潜って向かった。
「――ですから、私はここへ退がれとあの禿に――」
飛び交う男達の声の中でガントールの声を聞き分けた。断片的だが、珍しく語調が荒い。
「――第二戦線としてこの邸の指揮を譲り受けているのは何方でしたか?」
またガントールの声。語気はは強いが、今度は妙に丁寧で人が変わったような言葉遣いにアーミラは違和感を覚える。
兎にも角にも背の高い獣人種ばかりの人の林を潜り抜け、開けた場所に出る。次女継承者が輪の中に入ったことを討伐隊の者たちが気付き、一歩下がって輪が拡げられた。雑音は波紋を広げて押し飛ばされたようにして静まった。
「この方です」と手で示すのはニールセン討伐隊長だ。「指揮は現在、アーミラ様が……」
何の話か。膝に手をついて上体を支えているアーミラは腰越しにニールセンを見て、次にガントールを見上げた。
「お、おかえりなさい、ガントールさん」
言いながら人違いに気付く。
「はぁ?」
昼日中の強烈な太陽を背に受けて立つ彼女は、ガントールにとてもよく似ていた。
とてもよく似た――別人だった。
後ろに縛った赤い髪もガントールなら左右に分けていたはずだ。だが目の前の彼女は馬の尾のように後頭部に束ねて垂らしている。そして逆光に翳る彼女の表情の刺々しさ……大らかな笑みを湛えていたガントールとは全く対照的である。
思わず視線を下へ逃すと、纏う衣装が長女継承の正装である真紅ではなく、やや赤紫がかった色をしていることに気付いた。それに足先まで裾が垂れている。
彼女の衣装は戦士とは似ても似つかない、丈の長い外衣であった。
「ど、どなた……ですか?」
地べたにへたり込んで見上げるアーミラは恐る恐る訊ねるが、返ってきたのは厳しい舌打ちだった。
「……話にならないわ。セルレイを呼びなさい」
人並みを割り、地面に転がるアーミラを蹴り飛ばす勢いでその女はずかずかと玄関へ進む。討伐隊の何人かは今の邸を指揮しているはずのアーミラに対して心配そうな目を向けるが、女はニールセン隊長に指示を飛ばし平原の警戒を怠るなと厳に言い放った。前庭に集まっていた兵達はすぐに移動を始める。蜘蛛の子を散らした前庭でアーミラは体勢を立て直し外衣の女を追いかける。
あの女は案内もなしに邸に上がり、迷わず廊下を進んで喫煙室へ立ち入った。
「失礼いたします」
「……これはこれは、随分と急な客人じゃないか」
セルレイ伯爵はお気に入りの椅子に腰を落ち着かせて美味そうに一服していた。
邸の主の座を譲り、降って湧いた暇を満喫しているようだ。
「まあ座りたまえよ。スークレイ女伯」
喫煙室には従者が一人。椅子には伯爵と、向かい会って腰を下ろすのはスークレイ女伯と呼ばれる外衣の女。一足乗り遅れたアーミラは部屋の入口に立ち、少し離れたところからその名を聞いた。
二度目だった。前回その名を聞いたのも、ここ喫煙室での一幕だったはずだ。
「お久しぶりに御座います、ギルスティケー・セルレイ伯爵。今年も夏ノ一は一層暑く、お元気そうで何よりです」
「そちらこそ御息災で。戦火の中にあって益々お美しくなられましたな」
「いえいえ、ここ最近の自治領の荒れようには、すっかり窶れてしまいましたわ」
「ご謙遜を。刃を研ぐことを窶れるとは言いますまい。……しかし、前線は厳しいか?」
「はい」きっぱりと言う。
スークレイと呼ばれた女は裾捌きも見事に挨拶を済ませると、短い雑談を交わし本題へ踏み込んだ。
己の自治領に危機が迫っていることを認めるのは沽券に関わる。通常ならおいそれと認めはしない。この発言には伯爵も面喰らって破顔した。
この二人、相当に気の知れた仲のようだ。
ガントールに瓜二つの容姿と、ラーンマク辺境伯の爵位。スペルアベルとラーンマクの繋がりがあって、両者の仲がいい……そうか。
アーミラはようやく外衣の女が何者か理解する。
彼女こそガントールが言っていた妹に違いない。ガントールは長女継承者であると同時に、血を分けた本当の姉妹がいることをぽつりとこぼしたことがある。
「しかし十日ほど前に長女継承と三女継承は此処を発ったはず」
もし戦況が押されていても継承者二柱を状況に投入すれば敵勢力を平らげるだろう。伯爵が言わんとしている事を菊した上でスークレイは眉を吊り上げて顔を歪ませた。ガントールそっくりの顔が怒りを露わにするのはとても怖かった。
「えぇ、ええ。来ましたわ私の愚姉が。偉そうな禿を連れてね」
「ああ――」伯爵はわからなくもないと言いたげな曖昧な相槌を挟む。
「着いて早々何と仰ったかお分かりでしょう? 『この邸をわしらの拠点として使いたい』」
「剛気じゃないか。嫌いじゃない」
「笑止ですわ。気に入りません」
「それで追い出されてここへ? らしくないじゃないか」
セルレイ伯爵は本心からそう言っているようで煙草を吸う手が止まっている。どうやらスークレイ女伯は跳ねっ返りの強い質らしかった。アーミラからみてもその印象に相違はない。スークレイ本人もそれは認めているらしく、うんうんと頷いている。
「勿論あのちびの言いなりにはなりませんでしたわ」
どうでもいいが、スークレイが『あのちび』と言葉を発する度にセルレイ伯爵は疲れた笑いを溢す。オロルのことを言っているのだ。敵を作りやすい性格なのはアーミラが何より知るところ。目の前の女伯とオロルの反りが合わないのは火を見るよりも明らかだ。
「ですが、『これ以上は保証できない』と、無理矢理馬車に乗せられて、今ここに。
……三女継承からは言伝を預かっています。アーミラ様」
「あっ、は、はい!」
不意に名を呼ばれ、アーミラは喫煙室の隅から一歩前に出る。
スークレイは怒り顔でこそないが、なんの興味もなさそうな流し目で一瞥した後に、オロルから預かった言葉を誦んじてみせた。
「『後方指揮により適性を持つ者を見つけた。スペルアベルの拠点指揮はスークレイの到着を持ってその者に一任する。……お主は以降スークレイの指揮下に属し行動しろ』――以上」
「はい。……あ、いや、え……?」
朗々と伝えられたオロルの言葉に流され肯ってはみたものの、遅れて言葉の意味が頭に染み込み狼狽える。このいかにも恐ろしい女伯の指揮下に入るとは……。
アーミラの混乱を見て、伯爵はこの場をまとめにかかる。
「改めて整理させてもらう。まず長女継承ガントールと三女継承オロルの二柱は前線ラーンマクに到着した。そこでガントールは妹の邸を拠点として貰うことを考え、スークレイ女伯にお達しした」
「ええ」
「女伯はそのお達しを一度は跳ね除けたが、昨晩から前線の状況が悪化。今朝ここへ運ばれ、ついでに私の邸の指揮権を次女継承アーミラから貰い受けた」
「そうよ」
「ふむ。私の兵は?」
「既に哨戒の指示を出しました。私が到着した時点で隊の指揮は私にありますので」
「問題ない。それで、私はどうする?」
伯爵は当然のようにスークレイの下に就いた。指示を仰ぐ笑みは、長い休憩も流石に飽きてきた……とでも言いたげだった。
スークレイは人差し指を唇に当て確認する。
「あれはいるの?」
「数に入れていない」
スークレイは少し考える。
「そう……ならあなたは私の護衛を頼みます。腕は鈍ってないかしら?」
「どうだろうな」伯爵は顎で使われることになんの反論もない「戦乙女のご命令とあれば、やれるだけやるさ」
残る指示は、私。
「あ、あの……」アーミラは怖怖とスークレイの背に声を掛け指示を仰ぐ。「私は何をすれば――」
「貴女は好きになさい」
スークレイは、会話を重ねるほどガントールと正反対だと思い知らされる。
そして冷たく言い放つのだ。
「期待していません」
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[08 吊るし人 完]
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