60話 涸れてますね
一度自室に戻り外出の仕度を整えると、アーミラは玄関広間へ向かう。階段を降りた先に待つ者を見つけ、眉を顰める。仮面の男、イクスが待っていた。
共に食堂を追い出された仲……付いてくる気なのだろうか。段を降り壁に立つイクスを通り過ぎざまに横目で見る。仮面の奥の暗闇にこもる微かな呼吸と見つめ返す視線に気付いて、さっと目を逸らした。
当たり前だが、面頬の内側は空っぽではない。肉体があり、顔がある。それがアーミラには妙に恐ろしく感じられた。
後ろをついて歩きはじめたイクスから逃れるように、アーミラの歩調は早くなる。来ないで――とは言えなかった。別の用事で偶然同じ道を歩いているだけかもしれないし、護衛をしてくれるのならその厚意を無碍にもできない。アーミラは思考を巡らせる。気がかりに背中を丸めて玄関広間にたどり着くと、首のない門番を見つける。警護に立つウツロである。これは渡りに助け舟、アーミラはぱたぱたと小走りになって声を掛けた。
「う、ウツロさん……! ウツロさん……!」
逼迫した様子の声音で呼び掛けるアーミラ。ウツロは泣き腫らした目元に気付いたか、向き合って言葉を待つ。
「つ、付いてくるんですが……どうしましょう……」
そう言って、視線でちらりと指したのは後方。
玄関を潜るイクスを認める。
首のないウツロはしばし事態を推察しているのか、見つめたままじっと動かない。
暫くして、アーミラの腕に指を当てる。
――俺も同行しよう。
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斯くして、アーミラは二人の護衛を従え、邸の外へ出発した。
街を往来する者達は戦士を生業とする者も多いが、その中でも一行の出で立ちは異様であった。
左には仮面の男。身に馴染んだ軍衣を纏い、得物である斧槍を握る手に気取りはなく、むしろ膝を痛めて引きずるような歩き方が不気味である。
右には板金鎧。こちらは首もなければ得物も持たず、仮面の男よりも一層不気味な姿である。命があるのかどうかも怪しい。
その二人に護られて目抜き通りを歩くのは――魔人種の娘。一行が只者ではないことだけは誰の目にも明らかだ。
アーミラは薄手の襯衣の袖を捲り、細い前腕を日光にさらしている。下は細袴に木履を履き、得物は何も持っていない。襤褸を纏う孤児であればこの街にも珍しくはないが、身なりから一見して前線にいるべき人間ではない。うら若い娘に警護付きとなれば、外部辺境伯の者が客人として邸に招かれたのだろうと推察するのが精々。それか、死兵を操る屍霊呪術師が前線に向かっているとも見える。
まさか彼女が、お使いを頼まれた次女継承者であるとは誰も思わない。
「……あ」
アーミラが誤算の声を漏らしたのは露店での買い出しの途中であった。
ナルから伝えられた食材は順調に見つけ出し、さて手に取ろうかというときに手元不如意であることを思い出したのだ。
「借款では、私が継承者だと明らかになってしまいます」
どうしましょう。とウツロに縋る。
――明らかにしてはいけないのか。
「いけませんよ……流石に面子もありますので……」
ウツロはそもそもアーミラの略装の意図にも気付いてはいなかった。青い法衣を纏わずに街へ出たのは身元を隠すためである。前線出征の使命を背負う次女継承者が邸の使いっ走りに食材の買い出しへ出向いたというのは、どう考えても外聞が悪い。
だからこそアーミラは自室に戻り略装へ着替えたのだ。しかし、詰めが甘かった。懐の貨幣はすでに使い切ってしまっていたのだ。
「あの時はもう使い所がないと思っていたので」
そう言ったのは、ムーンケイの一件である。茣蓙を敷いて、乞食の寝床のような襤褸の商店を構えた少年から、魔鉱石を買い揃えて財産全てを支払っていた。
「もういらないと思って散財してしまいました……」心底しくじったと肩を落とすアーミラ。
そこに声をかけたのはイクスである。始めて聞いた彼の声は嗄れているとも、痰が詰まっているとも言い難い、不気味な響きのある喃語であった。
「……あい」
日に焼けた男の手に握られていたのは巾着だ。声に背筋を粟立てたアーミラは一拍を置いて、差し出された物の意味を理解する。
ウツロは手を皿にして受け取る。巾着はじゃらりと重たく掌に乗った。邸から受けているぞんざいな扱いからは想像できないが、相当な持ち合わせがあるらしい。腐っても退役兵としてそれなりの俸禄はあるようだ……だが、それにしても……。
「全部……銀粒……」
アーミラは巾着の中を覗き込み驚く。懐から取り出したのは持ち合わせてだけでこの額……やはりこの仮面の男には、何かあるのだ。
ともあれ、アーミラはその懐疑の念は今は口には出さない。出せないとも言える。単に素性のわからないイクスが恐ろしいという心理と、貨幣を借りている明確な恩義がそうさせた。
結局、買い出しに支払ったのはイクスの懐からだった。ナルが目当てにしていた継承者は手元不如意で、銅粒一つも持ち合わせてはいなかった。当然ウツロも持ち合わせは期待できない。
「……あ」
本日二度目のアーミラの呟きにウツロは足を止めた。手には買い物の包みを抱え、後は邸へ戻るだけという道のりである。買い忘れでも思い出したのか。
アーミラはじっと一点を見つめていた。視線を追うようにウツロは上体を回す。先にあるのはなんてことはない井戸だった。
「おうした」
どうした。とイクスは問う。彼の荷物は行きと変わらぬ斧槍のみ。警護のため買い出しの荷物は持たなかった。むしろ懐は減り、往路よりも身軽になっている。
「いえ……あの……」
アーミラの返答は歯切れが悪い。なんでもないと言おうとした口は黙ってしまい、足が井戸へ向って進んでいる。魅入られたか、ウツロは呪力を警戒してアーミラの前に立ち、先に井戸を覗き込む。
「……涸れてますね」
アーミラも井戸を覗く。かなりの深さだが底が目視できた。内側は石積の筒型で、水気はない。井戸外観にも苔はなく、根のしぶとい下草が周りを囲んでいた。
呪力に操られているわけではなさそうだ。……ならば何故、ただの枯れ井戸に強く興味を持つのか。ウツロとイクスは説明を求めるように彼女を見つめた。
「す、すみません……なんだか、見覚えがある気がして……」
そう弁明して、また吸い込まれるように井戸の中を覗き込む。
目を凝らしたところで何の変哲もない涸れ井戸だ。しかしアーミラにはその穴がとても懐かしく思えたのだった。
この下に繋がる細く暗い地下水道の景色を知っている気がする――井戸へ降りる気にはならないが、ほとんど確信していた。過去の私は、お師様とここを歩いたに違いない。
また一つ記憶の手掛かりを手に入れたと、井戸から顔を上げたアーミラは上機嫌で帰路に戻る。
釈然としないウツロは不思議そうに井戸とアーミラの背中を交互に見やった。あんな穴ぐらの何を見てご機嫌なのか……本人にしかわからないことだった。




