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最後の異世界転生譚 ――Echoes Beyond the Aurora Manuscript――  作者: 莞爾
08 吊るし人

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59話 ここから先は命がいくつあっても足りん



 昼が近づくにつれ前線側からは遠雷のような不穏な音と地響きが届く。

 邸の者は「ただの砲撃でしょう」と簡単に言うが、アーミラは気もそぞろだった。いつこちらに流れ弾が飛んでくるか、窓外を眺めては落ち着かない。


 そんなアーミラに並んで、珍しくオロルまでもそわそわとしていた。


「ここ最近は前線の衝突も激しくなっていると聞いとる」


 オロルは窓辺に立って南側の景色を睨む。

 ごろごろと雷雲が迫るような恐ろしい音だけが届くが地平に黒雲はなく、向こうに広がる戦火は塵のような土煙でしか窺えない。目を凝らしても望めない遠くの地で、どれほどの命が血を流し倒れているのか……未だ実感が湧かず、アーミラは胃が引き攣るような空腹感と吐き気に顔色を失っていた。


「オロルさんでも、怖い……ですか?」


 アーミラは問う。

 てっきり「怖いものか」と一蹴されるのだと思っていた。


「当然じゃ。非死アモータルの加護を受けたとはいえ怪我をすれば痛みはある。ここから先は命がいくつあっても足りん」


 南方を睨んだまま答えるオロルの手が固く拳を作る。まるで手の内に携えた刻印を失くしてしまわないようにと握るようである。手袋の下に隠している異形の指がささくれて、輪郭がぼこぼことしていた。


「よいかアーミラよ、怯えていては戦えん。じゃが、恐れを失ってもいかんのじゃ。

 なんのために戦うのか答えが見つかった時、お主はラーンマクへ来い」


 そう言い残してオロルは窓辺から立ち去り、廊下の先に待つガントールと合流する。振り向かず階段を降りていく彼女に代わり、ガントールは「行ってくる」と手を振った。

 手を振りかえすアーミラはせつに二人の無事を祈るばかりである。





「けっこう信頼してるんだな」


 ガントールは言う。


 スペルアベル平原ギルスティケー辺境伯の邸から南へ進み、二人は町の外れに出ると柱時計アトラナートを顕現させて馬の代わりとした。この脚ならばラーンマクまでそうかからないだろう。


「……なんの話しじゃ?」オロルはとぼけてみせる。


「アーミラのことだよ。実力は見たってことでしょ? じゃなきゃ邸を任せるなんてできない」


「ふん」オロルは鼻を鳴らす。「さてな……あやつはよく愚図ぐずるし泣いてばかり、ここまで一度も戦ったところを見ておらん」


「え」ガントールは巨大な蜘蛛の頭の上、胡座をかいた猫背を伸ばす。「大丈夫なのか……?」


 オロルは答えず、代わりに流し目でガントールを見つめる。

 ややあって口を開く。


「あやつ……アーミラは心に暗いものを宿しはじめておる。おそらく自身が継承者となる選択をしたことで、集落一つを犠牲にしたと考えとるのじゃろう」


 至極真面目な物言いにガントールは黙って続きを促す。


「どんな人間も、支払った犠牲の数だけ後戻りができなくなる。賭場とばで負けた者が損失を取り返そうと躍起になり賭け金を増やすようにの。

 ……集落という犠牲を払ったアーミラは、この先納得のいく見返りが手に入るまで継承者の使命を望んで背負い続けるじゃろう……それが敵討ちか、領地略奪か、戦争の終わりか」


 遠く前線を睨むオロルの視線は何を見るでもなく、むしろ全てを見通すような、賢しく世を憂うまなこに思えた。

 ガントールは胸の奥にちくちくとした痛みを覚える。継承者の道にアーミラを引き摺り込んでしまった罪悪感に奥歯を噛み締める。


 後悔しないために私たちはその場その場で選択し、最善を尽くす。

 短期的な正解が長期的にも普遍の正しさを維持できるかは怪しい……積み上げたものがあっけなく崩れ去る無情は、世にありふれている。

 それでも今は――この道が正解であると信じるしかない。断罪の天秤を持つ長女継承が正義を疑ってはいけないのだ。


 そういう意味では私たちもまた、少なくない犠牲を支払っているのだろう。ガントールは決意を握るように拳を固める。

 オロルは続ける。


「あくまでこれも最善策じゃ。わしにできるのは、知恵を絞ることだけよ。……それで言うなら大丈夫なのか?」


 切り返す言葉に今度はガントールがとぼける。


「ん? 何が?」


「アーミラを心配している余裕が、この先あるとは思えんぞ」


 腐した顔のオロルの視線。前方に広がるラーンマクの景色は見紛うことなく戦場だった。





 激動の数日を過ごしたアーミラにとって、その後の日々は肩透かしなほどに平穏だった。

 敵襲を警戒して数日が経ち、間者うかみを警戒してまた数日。何もないまま一週間が過ぎようとしていた。


 アーミラは伯爵から邸を譲り受けているとはいえ、討伐隊も従者も毎日の業務に変更は無かった。結局のところアーミラは手持ち無沙汰の居候に落ち着いている。


 このていたらくに苦言を呈したのは炊事場を切り盛りしているナルである。齢十二にして朝な夕な齷齪あくせくと働き、朝餉あさげから夕餉の献立をこなす少女からしてみれば、突然やってきた次女継承者は主から邸を横取りした挙げ句、日がな一日何もせず、飯時になると食堂で飯を食うだけの不躾な客人だった。

 ナルは不快そうな表情を隠しもせず、腰に手を当てて言い放つ。


「ねぇ、貴女って穀潰しなの?」


 単刀直入とはこのことか、真っ直ぐに突き付けられた言葉の鋭利さたるや、まるで短剣を突き刺されたようにアーミラは背を丸めて渋面になる。


「うぅっ、す、すみません!」


 申開きもできない現状はアーミラも重々承知だった。まさかこれほどまでに何事もない日々が続くとは想定外だったのだ。

 とはいえそんな事情は少女には通じない。いきなりやってきて食い扶持一つ稼ぎもしないのに、要らぬ配膳仕事を増やしている不満が溜まりに溜まっていた。


「この言葉は知っているでしょうね『働かざる者食うべからず』って」


「本当におっしゃる通りです」


「今度からお金取るからね!」


 眉を跳ね上げて捲し立てるナルの剣幕に、アーミラは塩をかけられた蛞蝓なめくじのように小さく萎みながらひたすらに謝罪の言葉を繰り返していた。飯を食うはずが責め立てられてしおらしく泣きべそをかき始めた彼女の姿に、最早もはや女神継承者の威光は無い。緩んだ顔が青褪めて涙を流すまでの急転直下は切ないものだった。

 食堂には他の人影はないように思えたが、隅で身を休めていた者が一人だけいた。


 あまりの気まずさにかける言葉もないのかと思えば、その者はどうやら事情が違った。仮面の男、イクスである。

 彼は食堂の片隅で静かに二人を注視していた。


 よりによってこんな姿を……アーミラは気恥ずかしさと情けなさでなんとか涙を隠そうと袖で拭いながら立ち上がる。


「お手伝い……しますので……」


 ぐずぐずと言葉を絞り出すアーミラに、実のところナルも困惑していた。

 ナルの想定では継承者とは生ける伝説のような天上人てんじょうびとであり、一辺境伯に仕える飯盛りの物申しなんぞ聴き流すか無視するだろうと思っていたのだ。まさかこうも萎びて叩頭ぬかずくとは……。


 引き攣ってしゃくりあげる肺を押し留めてはなをすするアーミラは、昼飯も抜きに食堂を出て行こうとした。配膳室に向かおうとしているのがナルにはわかったので、慌てて袖を掴む。ぬるついて湿っていたが構っていられない。


「しなくていい。私が怒られるから」


 何人なんぴとも厨房に入らせず。不用意に人を入れることを伯爵が禁じている。これは食事に毒を入れられることを警戒しての邸の方針であった。

 ならばこのまま昼飯を出すのか。それではナルの腹の虫がおさまらない。なにかこの穀潰しに労働を与えなければ……そう考え思いついたのは買い出しの依頼だった。都合がいいことに、塩甕しおかめが尽きかけていることを思い出す。

 継承者の懐であれば食材の調達は大した痛手ではないと睨み、昼飯を与える前にまずは働かせることに決めた。


 ついでのようにイクスも食堂から追い出されていたので、アーミラは気まずい思いだった。

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