今回の魔術陣は随分と近いですな
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時を同じくして、マハルドヮグ山頂に聳える神殿からも三代目国家ナルトリポカ上空に現出した魔術陣は観測された。正午を少し下った時分のことで、昼餉後の小憩に響き渡る鐘の音は、青天の霹靂であった。
突然の事態に神殿領内を忙しなく駆け回ることとなった彼等は、麓の国々から神人と呼ばれる者達。神の血筋とされる天帝――ラヴェル一族――に仕えている者達だ。皆一様に白衣を纏い、神殿領内で生活を送る特権階級の役人たちで、彼らは全国から集められ、魔人種、賢人種、獣人種の血を等しく扱いあらゆる学問、あるいは何かしらの才覚に優れる者たちで構成されている。
所謂『神人種』という一つの括りとなる。その中でも、彼らに采配を飛ばしている一人の女がいた。
その者の名はカムロ。神人の中でもとりわけ優秀であると評価を受け、まだ歳も若いうちから神族近衛隊隊長の座に昇りつめた実力者だ。
カムロは占星術――星の位置を読み、歴史と照らし合わせて吉兆を占う学術――の使い手である。彼女は星読みによって刻印出現という未曾有の事態を予見していた唯一の人物であり、当代継承者についてはこれまでとは異なる星の巡りがあると見ていた。そして事実、当代六百年の節目を迎えたこの世はこれまでとは異なる事象が多く、この度の刻印現出に対しても彼女の表情は厳しかった。
占星術で予測していた通り、この日に刻印が現れることは知っていた。しかし、百年前の継承者不在の変や、それに伴う星辰周期のずれが複雑に絡み合い、これから先の予測がつかない。
部下たちの前では適切に指示を飛ばし冷静に振る舞いながらも、彼女の内側は渦巻く濁流のようだった――
やはり現れた……! しかし、ならばこそどうして、
まずは冷静に、状況を整理しましょう。……この数年、星読みに現れ続けている兆候について私は憂い続けていた。継承者の出現を伝えるいくつかの天体の輝きに反して実際に見出されたのはガントール様お一人だけ。これだけであれば前例はある。初代継承者アーゲイもまた長女継承のみだったと記録にも残されている。
しかし、此度はそうではないのだ。星の瞬きは安定せず、星読みの度に激しく輝いたり、消え入る蝋燭のような光となる。一体なにを訴えているのか……それに呼応するように刻印現出は気が触れたように三度も発生した。一度につき一人を選んだということもない。こんなことは過去に例がない。
前提として、継承者嬰児は百年周期で誕生していた。少なくとも四代目まではその周期に従って魔術陣の観測が記録されている。その四代目について、より細かい記述によると、『産まれた日は違えど同じ年にそれぞれの種属から一人が選出されるようにして三人の娘が揃えられた』とある。この事実は神殿内外を問わずその時代を生きているものならば誰もが知っていることだ。その周期がずれ始めたのは百年前。本来五代目継承者が現れる節目の年だったのだが、その年の三女神継承者は生まれてこなかった。つまり四代目から今まで二百年の沈黙があった。星の巡りはここで狂ったのだ……はたして当時何があったのか、記録されている史料もやたらに乏しいのが気になるところだが今は置いておこう。とにかく今理解しておくべきなのは、二百年の沈黙が破られたこと。そして、星読みを狂わせる不穏な光が現れたこと……。
それは彗星――二百年の沈黙を破って当代継承者の魔術陣が現れた最初の年から、南西の方角に長く尾を引く天体が現れた。それは観測が認められてから十七年間、現在も夜空に存在する。果たしてそれが何を意味しているのか……。過去の記録でもまさに二百年前、先代の三女神継承者達が前線へ向かったときにも彗星は現れていると史料にはあった。曰くその史料に拠れば、当時前線では災禍の龍による被害が甚大であった事、そして龍との交戦の記録が残されている。それらを鑑みるに彗星は禍事の前兆……。恐らくは当代継承者達の先行きは困難なものになるのだろう……いや、そもそも先行きどころの話ではない。今まさに混乱している有様ではないか!
全くもって頭が痛む。顳顬に石でも擦りつけられているかのようだ。
本来五代目が現れるはずの年に継承者は揃わず、先代から二百年の空白を経て魔術陣は三度観測された。先程にも言ったとおり当代では今日を入れて三度目の魔術陣観測となる。その様子もまた、過去の記録とは異なる。
一度目の魔術陣現出から振り返ろう。当時は十七年前、今度こそ継承者は現れるだろうと誰もが期待していた世の中で、継承者は一人だけ現れた。
ガントールと名付けられたその娘は産声を上げるより先に未来を決められた。獣人種の長女継承。その娘だけが刻印を身に宿して神殿に迎え入れられた。空には他二つの刻印が現出する気配を見せ、曇天を切り裂く雷鳴が機嫌悪そうにごろごろと鳴いていた。継承者が三人揃うか、それでなくとも二人目は現れてくれないか……固唾を呑み空を見上げる人々の期待も虚しく雷鳴は勢いを失う。
それから時を経て十年後に二度目の魔術陣が観測された。この時はまさか二度目があるとは誰も思っておらず、望外な知らせに戸惑い眉をしかめる者もいた。
次女と三女の刻印が空に現れたが、いずれも数刻後には霧散。魔術陣の動きから、生まれた娘が流れたかしたのではないかと憶測も飛び交ったが、後の調べではその日魔術陣の示した集落で出産したものはいなかった。こうなれば当代は長女のみの前線出征かと思われたが、今日になって三度目の魔術陣が観測されたのだ。三度目の正直となるか、ナルトリポカの集落で次女継承者が現れたのであれば、どこか他の場所で三女も現れるかもしれない……その可能性は捨てきれない。
――カムロは痛む頭に顔をしかめながら思考を整理していると、玉砂利をまっすぐに駆け寄る足音に気付き意識を向けた。
「カムロ隊長、至急お伝えしたいご報告が」神族近衛の部下が駆け寄る。低く喉にこもった声の主はよく知った顔であり、カムロは目で見ずとも呼び当てられた。
「どうしました、ザルマ」
「はっ、……それが、三代目国家ムーンケイ上空にも刻印が現出しました。当代三度目にして本当に継承者が揃うかもしれません……異例の事態ですな」
「もしかしたら本当に……しかし、いや、まだ楽観するには早いか……」
部下は日差しの照りつける前庭を駆けていたのだろう、額から噴き出す汗を手の甲で乱雑に拭う。対してのカムロの返答は冷静なものだった。隊長はこの事態を予想できていたのだろうかと、部下は内心考える。しかし今しがた目撃した魔術陣に興奮は収まらず、形振り構わずムーンケイの方角に指をさす。百聞は一見にしかずとでも言わんばかりの態度はいささか礼を失しているが、カムロがそのことに目くじらを立てる様子はない。促されるままに指し示した方角の空を確かめるが、視界は神殿の陰に遮られている。間抜けを晒す部下を置いてカムロは開けた場所まで駆け出した。
「これは……!」
カムロは言葉が続かない。
「今回の魔術陣は随分と近いですな。ナルトリポカとムーンケイ、ともに内地……陣も大きく観える」
例え三度目であっても目を奪われる。山頂から見霽かす薄雲の青空には、大輪の花のように刻印が二輪、燦然と輝いていた。
その場にいた誰もが息をのんだ。視線はただ一点、天を仰ぎ、言葉を失っていた。人生で三度目の魔術陣の観測……本来なら三百年生きなければ経験することのできない出来事だ。未曾有の事態に手放しに喜ぶ立場ではないことは重々承知ではあるものの、唯一無二の規模と美しさを誇る魔術陣を前に心を釘付けにならぬ者はいない。
「揺らぎはありませんね……二つとも霧散の兆候は?」カムロが問う。
「ありません。もしかしたら、本当に……」
「となれば今度こそ継承者が現れたのかもしれません。長女継承者様と鎧の魔導具を集堂に召集してください。次女と三女の保護に動きますよ」