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最後の異世界転生譚 ――Echoes Beyond the Aurora Manuscript――  作者: 莞爾
08 吊るし人

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57話 顔を覚えておくように

「姉ども」


 水桶の前に立つ二人の後ろ、音もなくオロルは立っていた。

 ぎょっとして目を丸くするのはアーミラだけではない。ガントールも思わず背を強張らせて身構えたほどだ。時折披露してみせるオロルの神出鬼没な移動術は、三女継承者の力に由来するものだと二人はうっすらと感じていた。

 そんな二人の反応に機嫌をよくしたのか、オロルの眠たげな目元に笑みが浮かぶ。が、寝起きのせいか普段よりも毒気が足りない。


「おはよう」


 自堕落な普段の振る舞いからして、朝の挨拶など口に出す質ではないだろう。オロルの言葉が妙に意地悪く聞こえる。


「ガントールよ。今日は昼前にはここを出るつもりじゃが、問題はないか」


「ああ。朝食後にセルレイから邸に仕えている人達の紹介があるからそこは同席するけど、問題ないと思う」


 ふむ。とオロルは頷き、今度はアーミラに向く。


「ということらしい。間諜が既に紛れているということはないじゃろうが、邸の者等の顔を覚えておくように」


「はい」


「それと、ガントールはああ言うが、お主の初陣は後方というだけではない。わしらの背後を狙う敵が現れた時、戦場は前も後ろもない。表と表じゃ。いざとなればお主が要となる」


「はい」


 間諜の禍人が平原を攻めてきた場合、この邸は後方という立場を返してもう一つの戦線となる。雑兵を相手にするだけのぬるい初陣と思うな――オロルの言わんとすることを受け止め、アーミラは確かに返事をした。

 期待を掛けられている。その責任の重さがアーミラには恐ろしくもあり、誇らしくも思えた。


 伝えることは伝えたと、オロルは会話を切り上げて二人の間に割り込むと水桶の前に立つ。左手に握る貝殻の紐を解いて赤い顔料を湿らせ溶かすと、薬指で両頬に塗る。その姿を何とはなしに眺めていたガントールは腑に落ちたように呟いた。


「毒気が足りないと思ったら、卜部うらべ族の化粧がなかったのか」


 得意げな表情で振り返るオロルに、アーミラは何故か少し自嘲めいた笑みを見た。





 皆で食堂に向かい朝食を摂ったあと、全員がこの場に残り集まった。

 ガントールから伝えられた通り、邸に住み込みで仕えている者の顔合わせである。

 卓を並べた下手しもて側に継承者達と伯爵が座り、上手かみて側の壁に沿うように従者達が立ち、紹介の出番まで待機している。ウツロは椅子に付かずアーミラの席の後ろに控えていた。


 従者と兵、合わせて三十人。獣人種と魔人種が大半で賢人種の数は少ない。兵士は男所帯で、女は皆従者だった。


「警備の都合もあるので手短に。討伐隊隊長から紹介し、顔合わせの済んだ兵士から任務に戻るように」


 伯爵が伝えると討伐隊は声を揃えて返事を返す。食堂は男達の発した声の残響に揺れる。

 一糸乱れぬ統率。練度の高い兵であることがすぐにわかった。


「彼らが私の兵だ。街では様々に呼ばれているが特に決まった名はない。強いて言うなら討伐隊だな」


 伯爵は短い説明を挟み、隊長を手で示した。


「こちらが討伐隊長ニールセン。もし兵を動かしたいときは私ではなく彼に頼んでくれ」


 名を呼ばれた男が一歩前に踏み出して背を反らし胸を張る。


「討伐隊長を務めるニールセンと申します」


 よろしくお願いします。と、折り目正しく一礼する。力に驕った様子もなく、歳は継承者達より少し上だろうか、髭もなく青ささえ残る若人だ。顳顬に生えた頭角も髪も短く小綺麗で、全体的に清潔感のある青年だった。


 挨拶を済ませた者から食堂を出ていくという段取り通り、ニールセンは警備に戻る。背中を見送り、オロルは呟いた。


「あれが隊長か。若いな」


「兵の入れ替わりはどうしても激しくなる。あれで入隊年数は長い方だ」


 伯爵は当然のように言い、次々と兵の紹介を進める。

 男達は名を名乗り、一礼。一挙手一投足同じような振る舞いで食堂を出ていく。アーミラは暗記しようと集中して臨んでいたが繰り返される光景に顔と名前を覚えられる気がしない。半分を過ぎたあたりで最初に覚えたはずの数名は何が何だかわからなくなって覚えることを諦めた。せめて隊長の名前だけ覚えておけば今後のやり取りに支障はないだろう。

 顔ぶれは皆若く、おそらくは一定の期間兵役を全うした者は除隊する規律でもあるのかとアーミラはぼんやり考えた。


「私兵は以上だ」


 二十四名の兵達の紹介を終えて食堂はすっかりがらんとした。残るは侍女ばかり。

 何か質問はあるかと伯爵は継承者側に顔を向ける。邸に残ることになるアーミラを見るが、アーミラは視線から逃げるようにガントールとオロルに目配せをした。特に聞くことはないと二人は目で応える。次いで後ろに立つウツロの様子を伺い、ふと思い出す。


「あっ……あの、もっと歳が上の兵隊って、いませんでしたか?」


 逃げていた視線が交わったと思えば妙な質問をする。伯爵は怪訝そうに答えた。


「いや、いないが」


 内向ぎみにどもりながらアーミラは質問を重ねる。


「では、か、顔を仮面で隠した方は……?」


 細い喉から発せられるか弱い声は、静かな食堂でかえって皆の耳を傾聴させた。壁を背に立つ従者達の緊張の息遣いに、あまり良い話題ではなさそうだと肌で感じる。

 仮面で顔を隠した兵はいるか――そう聞かれたとき、伯爵の表情から僅かに余裕が減っていた。


「その男を見たのか?」


 伯爵は重たいものでも背負うように姿勢を丸めて卓に両肘をつき、指を組んで親指の腹で顎を支える。見てはいけないものを見たのだと咎めるような、険のある口調だった。


 本当に亡霊なのかもしれない。アーミラは小刻みに震えるように首を振る。


「いえっ、いえいえ……私は見てないです……ウツロさんが……」


 なすりつけるように言い逃れをしたが、実際アーミラは見ていないのだ。

 厄介ごとの気配にオロルとガントールは口を揃える。「またウツロか……」


 当の目撃者は名を挙げられても置物のように微動だにしない。伯爵は視線厳しく目を細めるが首のないウツロを相手にしては睨む甲斐もないだろう。やがてため息をつき椅子の背もたれに腕を回して姿勢を崩す。煙草を取り出そうとした手が止まる。食堂では吸わない約束なのか、従者側からは口を引き結んで無言の圧力がかかったのをアーミラは感じた。


「……あいつは兵ではない」観念したように伯爵は言う。「関わることもないだろうと、この場に集めてもいない」


 昨晩ウツロが見たものは幽霊ではなかった。しかし一人だけけ者とは、邪険な扱いを聞いて思わず可哀想だとアーミラは言いかけた。喉元まで出かかった言葉を呑み込む。

 仮面の男は、すでにそこにいたからだ。


 いつからいた……?

 どこから入ってきた……?

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