弁明しても意味はない
アーミラの疑念に対して、ウツロは言葉を選ぶような態度で沈黙した。
しばらくしてから指を滑らせる。
――見えざるものの声が聴こえたのだ。『あそこに敵がいる』と、『走れ』と。
「また幽霊の話ですか……?」
今宵屋根の上で見たと語った仮面の男の幽霊話。すぐに消えてしまったと言うが、同じように集落の危機を伝えたのもまた、見えざる者の声だという。
はぐらかされているのか、冗談のつもりか、アーミラには測りかねた。
――俺が駆け出すとき、お前たちは行方をくらましていたな。
「それは、偶然杖の中に」
――偶然か。偶然俺が一人になった。これも俺が裏切り者だから仕組めたのか。
ウツロの指が素早く動く。
――継承者となった初めての夜、俺はお前の夜警をしていた。寝首を狙う刺客はいたさ。みんな殺した。
――もし俺が裏切り者なら、出征はガントールとオロルだけになっていただろう。
「あ、あの……ごめ――」
明確な憤りの言葉にアーミラはたじろぎ、思わず謝ろうとするが、それよりも早くウツロは手のひらで制した。
――謝るな。俺も、アーミラも、言葉で弁明しても意味はない。
――俺の無実は、これからの行動で示す。
言い捨てるように走り書きをして、ウツロは階段を降りていった。夜警に出たのだろう。
取り残されたアーミラは呆然として、ウツロを見送ることしか出来なかった。
怒っていた。明確に。『裏切り者』と言われることが、鎧にとって何より耐え難いことのようだった。首を失って魔導具然としていく見た目に反して、内に備えた人間性は蓋を開けて一層強く香り立つようだった。
平原に訪れる夜も深まり、天上から照らす月明かりの下を雲が流れていく。山間と違い平野の気候は雨もなく、昼間の戦闘も嘘のように皆が寝静まり戦線に休息が訪れる。
セルレイ辺境伯の邸では特別なもてなしもなく継承者達が客室を与えられ、それぞれの時間を過ごしていた。
厠を探し二階を徘徊していたのはオロルである。彼女は勝手のわからない邸を彷徨ったあと、通路の行き止まりに辿り着く。どん詰まりに設けられた扉は見た目からして厠らしからぬ大きな扉だが、一応は確かめるために近付いた。
漏れ聞こえる会話に足を止める。
声からして、この部屋は伯爵の寝室だろう。道理で大きい扉なわけだ。
話し相手に招かれているのはガントールのようだ。
積もる話に花を咲かせる和やかな談笑を盗み聞くのも野暮……どうやら二階には厠がなさそうだと、オロルはそそくさと踵を返す。
己に与えられた客室まで戻るとちょうどアーミラと鉢合わせる。一人のようだ。
「ウツロには会えたか?」
「はい。今は夜警に出ています」
「精が出る」オロルは欠伸混じりに言う。気怠そうな瞳は充血していた。これはまた相当酒を飲んだなと、アーミラは思う。
「でも」
「……なんじゃ?」
アーミラはくだらない疑問であると承知して言い淀むが、なんでもないと誤魔化す方がオロルの機嫌を損ねそうだと考え、言うことにした。
「首がないのに見張りなんてできるんですかね……? まあ、できるからやってるんでしょうけど」
「わからん。やりたいようにさせておけ」
興味もなくオロルは言い、階段を降りていく。冷たいようにも思えるがウツロに対するオロルの放任主義は一種の信頼の形とも思えた。あいつは使える。任せておけば問題ない。ということなのだろう。頭の良いオロルが鎧の行動を疑わないのなら、自分の推理はきっと稚拙だったのだ。
実際ウツロはこの旅の中で貢献している。ガントールも。一方で私はどうなのだろう……今宵は無力感に苛まれ、心は虚しさで満たされていた。
アーミラは見えなくなったオロルの背中を見つめる。彼女が何を思い、私を邸に置くことを決めたのだろうと考える。
もう誰もいない廊下に問う。――私は言葉通り後方支援ですか? それとも足手纏いですか……?
❖
長い一日がようやく終わり、スペルアベル平原に朝がやってきた。
各々異なる道中を辿って合流したこの平野に朝日を遮るものはなく、邸で一夜を明かした者達は示し合わせずともぞろぞろと寝台から身を起こす。内地のような宿とは違い前線に近いとあって客人の世話は必要最低限のようだ。邸内に人の気配は疎らで、おそらく伯爵一人を世話するのに従者達は早起きの必要がないのだろう。
目を覚ましたアーミラは、前の晩に自ら用意した水差しから一杯の水を注いで喉を潤し、慣れた手つきで寝台を整えて部屋を出ると、通路脇に備えられた水桶で手拭いを湿らせ顔を洗った。
奥の部屋からも誰かが起きた気配がある。扉を開く音、足音の歩幅から振り向かずとも判別できた。
「おはよう」
ガントールだ。
「おはようございます」アーミラは手拭いを二つ折りにして指にかけ、挨拶を返す。
「外が明るくなると急に暑くなるな」
窓外の景色に視線を向ける。殺風景な朝があった。
この地域は風通しがいいので夏でも湿度がなく、マハルドヮグ山脈に降る夜雨もここには届かない。疲労もあって久しぶりに深く眠れた気がするが、ガントールの言う通り、日が登ると一帯が日光に照らされて温度は急激に上がり、喉の渇きにいやでも目が覚める。
「起き抜け一杯の水を飲まないと干物になってしまうよ」と笑うガントール。くしゃくしゃになった長い緋色の髪が昨晩の寝相を物語っていた。
はだけた寝巻きから晒している右腕の義手は、断ち切られた二の腕の膠原質がよく見える。目脂を擦りながら大口を開けて欠伸をすると、ガントールの獣人種らしい牙の生え揃った口元に視線がつい吸い寄せられた。
「二人は前線に行くんですよね? 今日出るんですか?」
アーミラの問いにガントールは間延びした生返事の後、簡単に返す。
「そうだよ。遅くても昼には。オロルの準備が整い次第かな」
水桶に手を濡らし、手櫛で寝癖を整えていくガントールの背後に立つアーミラは、躊躇いがちに言葉を選ぶ。
「私、だけ……ここに置いていかれるのですが、それで、私はどうすれば……?」
「どうって、ここを守れとしか言えないな。状況が悪ければ私たちはこの邸まで戻ってくることになるんだから」
ガントールは言いながら髪を二つ結いに整え、アーミラに振り返る。
濡れやすい瞳に、不安そうな表情。藍鉄色の髪が俯いた少女の顔に影を落としている。三人が共に前線を目指すこの出征において、スペルアベルに置いていかれることに負い目を感じているのがわかった。
「急ぐ必要はない。しばらくは後方で戦況を見ながら経験を積んでほしい」
ガントールはそばに寄り添い、一度頭を撫でようとして手を止める。そして行き場に悩んだ手のひらで肩をそっと掴んだ。そして続ける。
「アーミラは、生き物を殺したことはあるか?」
優しい声音だが、言葉の意味は真っ直ぐで残酷だった。
アーミラは長女継承者がこれから言おうとしていることを予感して、首を振る。
「あ、ありません……」
「敵が化け物であろうと、生き物を殺める行為に心を慣れさせなきゃいけない。
初めから抵抗なく殺せる人はいないんだ。……どんな戦士でも初陣は後方から。誰かの取りこぼしにとどめを刺したり仲間の手当をしたり……そうやって血に慣れた奴、その場その場で決断と行動ができる奴から最前線に配置される。
だから邸に置いていかれるのは能力不足ってわけじゃない」
「……はい」
慣れた奴から前に。
アーミラはその言葉が持つ生暖かくどろどろとした耳触りに安心できなかった。この邸に置いていかれることが一人の新兵としての順当な評価であると励まされる一方で、武勲を立てた者はより命がけの境遇へ配される先行きの不穏さ。
強くなりたいと願った。アダンとシーナを酷い目に合わせた奴に対する怨みだって、この胸に刻まれている。――しかし、殺し合う場所に身を置く覚悟も経験もない。ガントールとオロルが言外に含んだ言葉の意味を理解し、アーミラは肩を落とす。
前線に向かうには未熟。
ついて行きたいと、言えるはずもなかった。