54話 この邸は好きに使いなさい
伯爵は背凭れに身を落ち着かせて聴く体勢をとる。
視線は発言の根拠を探るようだった。
オロルは続ける。
「今日の朝から、わしらはナルトリポカに向かった。ガントールから聞いておるかもしれんが、昨晩襲われた集落の様子を見に行くためじゃ。昼前には用事を済ませたが、スペルアベルに向かう前に少し気になることがあってな。飯屋に寄った」
ここまで聞いてガントールは苦笑した。ほら、やっぱりオロルは寄り道してる。
飯だけなら結構だが、酔いが顔に出ないのをいいことに酒も嗜んだだろう。
「ただ昼食をとったわけではありません」と、アーミラが控えめに擁護するとオロルは勢いに乗って続ける。
「内地に位置しているはずの土地がこうも容易く、用意周到に襲われたのじゃ。敵の潜伏期間は年単位でも驚かん。南に逃げたとみせてまだどこかに潜んどるじゃろうから昼の時点では戻るべきか留まるべきか、判断に迷っていた……結果的には戻って来たがのう」
その考えはわかる。ガントールは素直な視線で同調してみせた。
「前線からここまで人の目を欺き紛れている間諜が、いつから活動していたのか、狙いはなにか……」
昼の飯屋となれば客入りは盛況だろう。二人はそこで情報を集めたのだ。
「それで、何か掴んだから合流を決めたんだな」腕を組んで先を促すガントールは、まるで伯爵の代弁者のようだった。
「行商人から聞けば、ずいぶん前から被害はあったようじゃ。畑に不審火が上がったり、人が行方をくらませたり、どれもトガの仕業じゃと恐れられておったが、暗躍しているのは禍人なのじゃろう」
「内通者ではなく?」
オロルは問いを返した。
「その目で見たのじゃろう?」
ガントールの言う内通者とは、裏切り者のことを指している。
人種は獣人でも魔人でも賢人でも構わない。禍人側に肩入れし、神殿を陥れるために動く存在。禍人が侵入している可能性を否定し、あくまで内通者がいるのだと考えるガントールの根拠は強力な防護結界に依存している。
ラーンマクに生まれ、神殿で育ち、前線派兵も経験したガントールにとって、防護結界への信頼は厚かった。しかし、オロルはその信頼が揺らいでいるのだと指摘する。
「お主はその目で見たのじゃろう。額に角があり、言葉を交わし、集落を襲った禍人を」
「オロルが言いたいことはわかる。でも人に化けたところで中身は咎だ。内地に入ろうものなら――」
たちまち化けの皮は剥がされる。禍人の姿を維持したまま結界は越えられない。
「――何度か禍人が結界内に踏み込む光景を見たことがあるけど……あの結界は強力だよ。私にはあれをどうにかできるとは思えない」
そう言いながらガントールは眉間に皺を寄せる。道理が通らないと自分の発言に首を捻った。
スペルアベルで会敵した存在は集落に火を放った犯人に違いない。ウツロも同様に、ナルトリポカで人の姿をした敵と戦っている。頭巾で顔を隠す周到さもあったと聞いている。
「兎に角、ラーンマクに限らず前線は崩れる。わしが言いたいのはこの現状じゃ。
どうやっとるかわからんが、禍人は防護結界を突破する術を備えとる。トガ共が全員そうしないのは、その術が使えるものがごく僅かな、利口な者達だけなのじゃろう。そして少なくともそんな禍人は三人おる」
オロルは話をまとめにかかる。
喫煙室の円卓中央に灰皿を置き、この邸に例えた。灰を摘み上げて簡易な地図を描く。
「三人じゃ。ウツロがナルトリポカの集落で戦った奴ら……その内一人は追い打ちの奇襲まで行い、ガントールから逃げ果せた。残る二人は雲隠れで行方知れず……」
右手の人差し指はナルトリポカの位置から灰皿の方へ滑らせ、そのまま禍人領側へ。
左手の人差し指と中指はナルトリポカから移動せず、両手の配置は灰皿を挟む位置に止まった。
「なるほど」じっと話を聴いていた伯爵は重たく呟く。「第二前線まで同時に落ちるな」
「うむ。狙われているのはここスペルアベルと四代目国家ラーンマクじゃ」
オロルの言葉に伯爵は腑に落ちたと言わんばかりに天を仰ぐ。
継承者が出征し、ラーンマクを守ったところで、スペルアベルが落ちてしまえば孤立する。それを阻止するために邸を寄越せという三女継承者の意図はガントールにもアーミラにもよくわかった。
ギルスティケー・セルレイ伯爵は頬杖をつき、薬指で下唇をかりかりと掻きながら沈思した。
「しかし疑問だな。敵はラーンマクを孤立させずとも、そのまま神殿を狙えばいい……それをしないのは何故だ?」
「事情はわからぬが、おそらく結界を突破できる禍人は限られておる。奴らは暗躍する間諜として内地に留まりつつも、二人だけでは戦力不足なのじゃろう。先に結界を破壊する可能性が高い」
「錠を破壊することで、固く閉ざされていた前線の門が開く……そうなれば大軍が押し寄せるか」ガントールは忌々しく禍人領に配された灰皿を眺め下ろしていた。
「現状の推理ではそうなる。集落を襲って、わしらを二手に別れさせたのが思惑通りなら、さっさと合流して前線の防衛を優先するべきと判断した」
「その判断が誤りだとしたらどうするかね」伯爵は問う。「君達が合流を選ばず、神殿に向かっていたらどうなっていた?」
「禍人が神殿に入り込んで居れば預けていたわしらの心臓の灯は消されておしまいじゃな。勿論、神殿の兵がたった二人の禍人相手に総崩れとは思わぬが、そのときは前線を捨ててでもわしらは飛んで向かう。
同様に、わしら平原に合流せず神殿に留まっていたならば、結界は破られ、ラーンマクと平原の失地により戦線が崩壊するだけじゃ。いずれも敗戦じゃな」
オロルは毅然と胸を張る。誇れるような返答ではないが、今ここにいるのが最適解だという根拠は示された。
伯爵の薬指は再び唇に添えられたが、掻く動きは止まっていた。
観念したように鼻で笑い、懐から二本目の煙草を取り出す。物陰で待機していた従者が燐寸をつまみ火を付けた。一息吸い込み、紫煙を吐き出しながら云う。
「……いいだろう。この邸は好きに使いなさい」
「賢明な判断じゃ。助かる」
「但し」伯爵は鋭く言い、人差し指を立てる。「私も好きにさせてもらう。『出ていけ』とは言われていないからな」
目つきは鋭いままに笑みを作る。伯爵の発言は命知らずの蛮勇ではないだろう。一日の終わりに一服する姿は少しくたびれた風体ではあるが、たるみのない顔付きは辺境伯領としての矜持が伺えた。
オロルは好戦的な笑みを口の端に浮かべて了承する。
「それで問題ない。拠点と言ってもわしとガントールはラーンマクに出る。ここはあくまで後衛じゃ。背後から心臓を刺されぬためのな」
名前を呼ばれなかったアーミラは、その意味を悟って驚いた。
「この邸に私だけ、ですか?」
後衛の拠点。魔術による遠距離からの火力支援として不意に白羽の矢が立ったアーミラは預かり知らぬオロルの作戦に戸惑う。事前に何も伝えられていないのに、奪った邸を右から左へ譲られても……。
「案ずるな。伯爵も留まる」
「平原を守ればいいってことですか?」
「それだけじゃ足らん。わしらの背中も丸ごと守ってもらう」
「そんな――」
食い下がろうとしたアーミラを捻じ伏せるように一言言い足した。
「ウツロも居るじゃろう」
「ウツロ……さんが……」
では任せるぞ。そう言ってオロルは肩を叩き、喫煙室を後にする。
まさかもう出ていくのかと声もなく目で追いかけたが、ガントールが後ろに付いて夕餉に誘っている。少なくとも一泊はするのだろう。
後に残ったアーミラは呆然と通廊を眺め、我に帰ると伯爵に一礼してそそくさと喫煙室を出て行った。腹が減ったわけではない。探しているのは鎧の姿である。




