53話 わしの予想では
玄関広間から三方向に分かれる入口をガントールは右へ進み、仕切られた半円を描く梁を潜ると次の広間に出た。そこには身を休める獣の前脚のように両脇からこちらに向かって、階段が据えられていた。上には登らず腹の下を突っ切って通路を奥へ進むと、窓の並ぶ廊下に繋がり、円柱状の広間へと続いている。
鼻先には紫煙が燻る香りが広がり、風に乗って細く揺らめく煙が滞留している。ガントールが連れてきた場所は、喫煙室だった。
先に立つオロルが中にいる人物に気付き軽く会釈をしたのを見て、後に続くアーミラは気を引き締めた。
視線を向けた先には、脂の染み付いた革張りの椅子に、腰掛ける一人の獣人。まさに口の端から紫煙を吐き出しているところだった。アーミラは交わりそうになった視線をお辞儀で躱すと、そのつむじに向かって声がかかる。
「……これはこれは、失礼。私の方から出迎えようと思っておりましたが、いつの到着になるか不確定だとガントールより申し出がありましてね」
思っていたよりも張りのある若々しい声にアーミラは顔を上げ、領主の言葉を聞きながらそれとなく観察する。若い声といっても三十は過ぎているだろう壮年の男で、謝る口ぶりのわりに椅子から腰を上げる様子はなかった。
こちらで待たせてもらいましたよ。と言う口の端に、肺に残っていた煙が混じり渦を巻く。
革張りは深い風合いの焦げ茶色で、もはや黒に近い。そんな椅子に寛ぎ肩幅以上に開いた脚は朱色の細袴に革靴を履いている。肘掛けに乗せた腕はだらりと垂れ、右手に挟んだ煙草は火をつけたばかりなのだろう。長さがあり火種は勢いがあった。軍衣のような前合わせは、胸元の釦が開いていて襟巻も緩められている。今日の仕事を終えたというふうだった。顔にも疲労が張り付いているが、表情に弱々しさはなく爵位を持つ者らしい硬い眼差しでこちらに応えている。
顳顬から伸びる熊手のような角は、まるで平原を治める者の印……一種の象徴のように、アーミラの目に映る。
「わしらこそ夜分に申し訳ない。こうして招き入れて貰えただけでもありがたいことじゃ」
これはオロルの言葉。どうということはないが、隣に立つアーミラはその声音に妙な慎重さを感じ取った。……なにか考えがあるのだろう。
「重ねて、不躾ながらギルスティケー伯爵に頼みたいことがある」
伯爵は垂らしていた腕を持ち上げて煙草を咥える。
「なにかな?」
「この邸をわしらの拠点として使いたい」
後に続く沈黙に胸がざわついたのはアーミラだけだろうか。
息を呑んでそれとなく隣のオロルを見て、次に伯爵の答えを待つ。
というよりも、困惑して動けなかった。
着いて早々、邸を自分たちのものにしたいだなんて豪胆がすぎる。そもそもなぜここが欲しいのかもわからない。まさか外観を一目見て気に入ったというわけではないだろう。莫迦ではないことだけはわかっている。彼女にしか見えないものがあり、どうするべきかを明確に判断しているはずだ。
対して伯爵は、まるで取り留めのない話題を聞き流すような態度だった。
間に立つガントールも険しい表情こそ浮かべているがオロルの発言に口を挟まない。
煙草を吸い、一度肺まで入れて、弛緩して開かれた口から紫煙が吐き出される。
側に置かれた卓の灰皿にこつこつと煙草を弾き、灰を落とす。
「それは、ラーンマクが失われるということかな?」
「わしの予想では」とオロルは首肯する。
ゆらめく煙の向こう、伯爵は目を細めてオロルを見つめる。この先起こるラーンマクの失地という未曾有の危機が果たしてどれほどの実感を伴って耳に届いたか、アーミラは二人の会話にただただ立ち尽くしていた。
「随分と穏やかではない展望だな。先を見通すのは結構だが、戦争は遊びじゃない」伯爵はガントールに顔を向ける。「ラーンマクにはスークレイがいるだろう。継承者の務めは出征による士気の高揚だけか?」
言葉を投げかけるが語調は問いかけではない。断定的だった。『前線の死守。それが継承者の務めだろうが』――そう言っているに等しい圧がある。それとは別に、伯爵の口から発せられた何者かの名前……アーミラは気になったが、とても口を挟める雰囲気ではなかった。
「今日明日落ちるという話ではない。もちろん死守できるようにわしらは動く。
じゃが、それでも失地を許したとき、備えがいる。ここに拠点が必要なのじゃ」
「椅子と茶を」突然伯爵は明後日の方を向いてそう言った。
アーミラは肩をびくつかせ声をかけた方へ視線を滑らせる。こちらからは姿は見えなかったが、伯爵の位置から見えるところに従者が待機していたのだろう。駆け出す足音だけが聞こえた。
「簡単な挨拶で済むと思っていたが……聞かせてくれないか。君の見ているものを」
ギルスティケー伯爵の邸の一劃、紫煙にけむる喫煙室では小さな円卓に椅子を囲い、三人はオロルに膝を向けていた。
オロルは注がれたばかりの熱い茶を一口啜って喉を潤すと、さてどう話したものかと考え顔で靴を脱ぎ捨て、用意された椅子の上に胡座をかいた。組んだ脚の膝下に覗く小さな裸足の指が曲げ伸ばしを繰り返して骨を鳴らす。
「わしの話をする前に、確認しておきたいことがある。ガントールよ、平原で何に襲われた?」
そう切り出され、ガントールが答える。
「トガの大群だよ。…いや、先導してたのは禍人だ」視線はアーミラの方に向いた。「集落を焼いたやつに違いない」
「え……」
思わず声を漏らしたアーミラは、一瞬驚いたように目を丸くしたが、口元は微かに吊り上がる。
当惑に浮かべた笑みではないことをオロルは察している――次女継承の内に秘めた復讐心が、望外に手に入れた仇の足取りに心を弾ませたのだろう。
アーミラは両手を内股に挟み、身を乗り出す。
「倒しましたか?」
その問いにガントールは首を振る。
「小賢しいやつだったよ。私にはトガを差し向けて、奴はウツロと戦っていた」
ガントールの言葉にアーミラとオロルは納得する。やはり平原に辿り着いて見た窪地はガントールとトガの戦闘の痕だったのだ。ではウツロはどのように戦っていたのか、視線を彷徨わせる。流れからしてこの先のことは本人から語ってもらいたいが、喫煙室に鎧の姿は不在だった。
「……姿が見えんな」
腹立たしげにオロルは呟く。
「ここに来てからまだ一度もみてません」とアーミラも続く。
不満を漏らす二人に対してガントールは訳知り顔で宥めつつ、小賢しいやつだったんだよと繰り返した。
ちょうど煙草を吸い終えた伯爵は名残惜しそうに煙を吐き、灰皿に押し付けて火種を消すと会話を本筋に戻す。
「ウツロとやらに話を聞かないと進まないのか?」
「……いや、よい」オロルはできることならば聞いておきたかったが、この場では些事として切り捨てた。伯爵の望み通り話を先へ進めても問題はないと判断したのだろう。「やはり前線は崩壊していると言っていいじゃろう」




