石は、何を使っているんですか……?
「まるで食い意地の汚い乞食ね。なんだか腐った匂いがするわよ。あの老婆と同じね」
むっとして、アーミラは領主の娘を睨んだ。
「なに? やり返そうって?」
領主の娘は得意げに河原の石を掴むと、脅しのつもりか明後日の方向に石を投げる。石は左後方の岩にぶつかり、硬質な音を立てて転がった。取巻きの二人が煽り立てる。
「またさっきの魔術やって見せてくださいよ!」
「すごかったなぁあれ! 初めてみた!」
アーミラの身体が強張る。見えないようにやったはずだ。三人の目線も確認していた。誰にも見せてはいけないとお師様に言われていたのに、まさか見られたのだろうか。
しかし、その心配は杞憂だった。
「いいわ、見せてあげる」そう応えるのは領主の娘である。
「……え」
アーミラは思わず声を漏らす。
次の瞬間、領主の娘は魔術を使い、石を浮遊させ、自在に操ってみせた。
驚くアーミラを見て気を良くしたのか、領主の娘は饒舌になる。
「将来この集落を治めることになるんですもの、この程度の魔術くらい扱えて当然。
まあ、私くらいの才能があれば造作もないことだけれど」
得意げに笑うと指先を上げ、次に振りかぶってアーミラを指差した。
石はその動きをなぞるように追従し、射出される。
左右から迫る石を、アーミラは首を傾げるだけで交互に回避した。アーミラにとっては慣れた回避動作だったが、彼らにはその力量を測ることはできない。まぐれで避けたように見えたのか、取巻きたちは余興のように歓声を上げて笑った。
「……い、石は、何を使っているんですか……?」
アーミラが問いかける。
頬に張り付いていた血糊がぱらぱらと剥がれていく。その様は、被り続けてきた陰気な仮面が剥がれ落ちていくようだった。
三人は微かに、目の前の少女の雰囲気が変わったことに気づいた。しかし、茶化されるのを恐れ、口にはしなかった。
だが確かに、彼らは彼女の逆鱗に触れていた。
「はあ? いしだぁ?」
「河原の石しかないだろが」
取り巻きは強がるように応えるが、領主の娘だけは違和感を拭えずにいた。
魔術や呪術を用いるには魔鉱石という触媒が必要だ。でなければ自身の命を摩耗することになる。河原の石を浮かせる程度のことで自分の寿命を削る者はいない。当然領主の娘は魔鉱石を身に着けていた。
その知識を前提とした上で、彼女が問うている『石』とは魔鉱石のことだとわかる……領主の娘は眉根を寄せる。一体誰からそんな知識を……? この薄汚い女は学もない流浪の娘ではないの……?
「……ほら、石はこの指輪よ」
興が削がれたか、領主の娘は素直に答えた。
「父さまが『好きに使え』って」
「っ……! こ、これ……!」
アーミラは眉を跳ね上げて詰め寄ると、奪い取らんばかりの勢いで指輪を嵌めた娘の手を掴んだ。
煤けた金属製の輪に、小さな魔鉱石が等間隔に三粒。
その年季、鉱石の灰色がかった赤紫色、魔力の減り具合――どれも見覚えがある。
「お、お、……お師様の……っ!」
アーミラの頭に血が昇る。
思わず、領主の娘に平手打ちをした。
わなわなと唇が震えるのを噛み締めていなければ嗚咽が漏れてしまいそうだった。
「な、なにが『好きに使え』ですか……! これは、私の……っ、お師様のものです!!」
領主の娘は、呆気に取られた。
初めて見せるアーミラの感情的な視線。
初めて受けた反撃。
しかし、すぐに怒りが湧き上がり、逆上する。
「はあ!? 気安く触らないでよ乞食のくせに!」
「か、か、返してください!!」
「あなたのものなわけないじゃない!」
二人は川辺で掴み合った。領主の娘はアーミラの髪を掴んで水辺に引き寄せるが、やられるだけのアーミラではない。引き寄せる勢いに乗せて彼女の腰元に肩でぶつかり水中に押し込む。盛大な飛沫をあげて二人は取っ組み合いになる。浅瀬は瀞を形成しているが少し奥まったところでは水流は早く足もつかない。取巻きたちは呆気に取られ、どうしていいかわからず互いを見合うばかり。
気付けば川沿いの路にも橋の上にも農作業を再開していた野次馬がぞろぞろと集まり、集落の大人達も何事かと河原を見下ろしていた。その中にはシーナの姿もあったが、アーミラは気づかない。
「あ、あなたみたいな駆け出しに、そ、そもそも、好きに使えるような魔鉱石なんて、あ、あ、あありませんよ……!」アーミラは震えながらも言葉を続けた。「だって、せ、せいぜい河原の石を浮かせられる程度でしょう……!? そんな、じ、実力のうちから、好きに魔鉱石を浪費したら、お、お金が、いくらあっても足りません……! き、き、きっと、お師様のものを盗んであなたに使わせているんです……乞食は、泥棒は、どっちですか……っ!」
「っ! あんたねぇ……!」
「才能があるなら……こんな、こんなところでちやほやされている暇なんて、あ、ありませんよ……! 石を浮かせるのなんて、初歩の、初歩じゃないですか……!」
アーミラの言葉は正しかった。
老婆を火葬した後に残ったいくつかの装飾品は、全て領主が預かっていたのだ。とは言ってもアーミラの元に渡ったものは一つとして存在せず、実質奪い取られた形となる。一方で領主の娘はせいぜい河原の石を浮かせる程度の実力しかない。勉学の成績が奮わない娘に実践で経験を積ませるのに都合がいいと、領主は娘に指輪を渡したのだ。
本当に才能のある魔術師ならば成人している時には戦闘に耐えうる術を身につけているはずだった。
彼女自身、言葉には出さずとも才能が劣っていることは前々から気付いており、その鬱憤を晴らすために弱い存在を虐げていた。流れ物であるアーミラはまさにうってつけで、八つ当たりに嫌がらせをしていただけに過ぎない。そんな矮小な存在であることを、他でもないアーミラに言い当てられたのだった。
「……流れ者の乞食の癖に口答えしないでよ……!」領主の娘は形振り構わず喚き散らして水面を叩く。「要らないわよこんなもの!!」
彼女は怒りに耳まで赤くして乱暴に指輪を外すとアーミラから背を向けて川の下流方向へ力の限り投げ飛ばした。アーミラがあれだけ高価であると言ったのに捨てるとは、野次馬達は思わず声を上げて指輪の軌道を目で追った。唯一、指輪ではなくアーミラを見つめていた者が一人。シーナはこれまでに見たこともないアーミラの姿に驚いていた。
共に過ごした三年間、朝も夜も一緒にいたというのに、これほどまでに感情を表に出しているのを見たことがなかった。シーナにとっては驚きで、大いに戸惑い、そして一抹の寂しさを感じていた。
アーミラはそんな周りの状況に依然として気が付いていない。ずぶ濡れの肌は衣服がまとわりついて蒸し暑く、ぴすぴすと笛のなる鼻を膨らませて、老婆の指輪を目にしたときから既に視界は狭くなっていた。そしてその指輪は今にも川の中へと失われようとしている。
だからこそ、アーミラの体は動いてしまう。これまで抑え続けていた感情、言葉、そして才能。師との約束を守るため秘匿し続けていた己の魔術を行使してしまう。
瞬時に魔力を練り上げると指先に集め、水面を掌で掬い上げて飛沫を空へ飛ばす。水は燐光を纏って軌跡を描くと、なぞるように川の水流がアーミラの意のままに足場を作った。アーミラは己の放った飛沫の足場を一足飛びに駆け抜けて高く放物線を描き落下を始めた指輪を追い、見事に手中に収めてみせた。両手を伸ばして飛び込み、指輪をしっかりと掴むと空中でくるりと身を翻し背中から水面へ落下、水面は飛沫をあげてアーミラを受け止めた。
一連の早業は人々を驚かせた。身のこなしも普段見せる気弱な態度とは別人のようで迷いがない。水を自在に操るその姿はまるで夢か幻か、皆が呆気にとられているが、当の本人は水の上に片膝をついて大層大切そうに指輪に両手に包み掻き抱いていた。
指輪をつまみ、日に照らして状態を確かめる。見間違えようがない。やはりお師様の指輪だ。
安堵に笑み、その形見を再び胸に抱きしめると二度と失うものかと左手中指に嵌め、満足そうに眺める……その手の向こうに見える景色には人集り、騒ぎ立てる声に気付くと我に返り、アーミラは人々の視線に戸惑うのだった。
「空を浮いていたぞ!」
「水の上を走ってた!」
……まずい。
「あの子、まさか魔術が使えるだなんて!!」
まずいまずいまずい……!
アーミラは練り上げていた魔力を霧散させ、足場が抜けたように川に落ちる。強かに飛沫を立てて膝までしとどに濡らすが、そこは浅瀬の瀞だった。いっそ深みに沈んでしまいたいと思うものの、今更身を隠したって意味はない。アーミラは老婆との約束を破ってしまったのだ。今や集落の者達はアーミラを魔術師として認識していた。領主の娘は既に騒ぎの蚊帳の外、あれだけ見下していた存在がこれほどまでの才覚を持っていたことを知り、自身の愚かさを嫌というほど見せつけられていた。しかし、己の罪を知るには遅すぎたのだ。彼女は以降、歴史に名を残すことなくその一生を終えることとなる。
運命の栄華、明暗を分かつこの一大事、富に驕る者は衰え、貧しくも勤勉である少女は祝福の光を浴びた。しかし、その光の眩しさたるや、よく磨かれた牙のよう……。運命とはときに飢えた獣となって、見定めた相手に逃れられぬ使命を与える。あらゆる犠牲を払っても逃げおおせること能わず。獣は、獲物を喰らうまで満たされることはない。
――アーミラが師と敬う老婆、マナ・アウロラが命を賭して逃げ果せたはずの獣は、今再び獲物を嗅ぎつけ狙いを定めた。
人集りの喧騒に圧されて、どのような言い訳なら筋が立つかとアーミラが逡巡していたまさにその時、突如として遙か頭上の青天から光が爆ぜた。
光の輪が広がると共に、荘厳な鐘の音が地上に届く。集落の者達の意識は否が応にも空へ向けられ、今度は何事かと事態を見守る。音の波は地表を震わせ木々に身を隠していた鳥達は翼を広げて逃げ去った。シーナは、あの光もアーミラが起こしたのだろうかとぼんやり見つめていたが、見上げるアーミラの表情が次第に険しくなるのを見て胸が締め付けられる感覚を覚えた。
もう会えなくなる気がした。……もしかしたら、アーミラは遠い存在になってしまうのではないか……? 別れの時が迫っているのではないか……? シーナはそんな予感を自覚したのだ。
鐘の音が響く度に光の輪が弧を描いて広がる。それは水面に広がる波紋のようで、しかし寄せては返すことはなく収斂しないまま果てまで輪を広げていく。これまで見たことのない魔術の流れがそこにはあった。光の筋は雲を押しやって青空を開くと、見えざる神の指先が規則的な意匠を描いていく――
誰かが、言った。
「おい……あれ、三女神の刻印じゃないか……」