40話 頭巾で顔を隠しなさい
焔に包まれても灼ける心配のない者……殺意も気配も持ち合わせない存在が、ここに来ている。そんな敵に心当たりは一つしかない。
ハラヴァンとダラクは確信した。
「鎧だ!」
「頭巾で顔を隠しなさい」
二人の声はほぼ同時、ハラヴァンの方は言いながら頭巾を目深に被っている。生きてこの場を離れるなら、顔を見られてはならない。ダラクはそんな指示も無視して女の髪を掴み、首元に刃を立てた。それを咎めるようにウツロは炎の中から長槍を投げていた!
一息に刃を走らせんとするダラクの右肩を目掛けて、火を纏う槍は突き進む。一瞬は引き伸ばされ、この刹那に勝負が決まろうとしている。
二人の駆け引きをよそにハラヴァンは広場の物陰まで下がっていた。ダラクに迫る危機に対し、既に逃避行動をとっており、迷うことなく切り捨てる判断である。
女が首を切られるのが先か、ダラクの腕が落ちるのが先か――
「な……んで……っ」
ぞぶりと皮膚を裂きながら刃の先端が肉に沈み込むはずだった。ダラクの心のなかでは女の首に刃を走らせ、鮮やかな断面を晒し、真紅が吹き出す光景がありありと想像できていた。
だが切り出しは女の首を掻き切ること叶わず、これまた紙一重の輪郭をなぞり青い火花が迸る。
微かな希望の兆しに女の瞳から生気が宿る。
あの鎧は見たことがある……助けが来た……!
しかし、命の危機は未だ喉元にあった。
ウツロが投げた長槍はダラクへ届くはずだった。女の首を斬るより先、その肩に突き刺さり腕を切り落とす軌道にあったのだが、寸前で横薙ぎに払われた。
ダラクでもハラヴァンでもない何者かが阻んだのだ。
両者ともに命を奪うこと叶わず、状況は振り出しに戻された。
ウツロの槍を叩き落とした三人目の敵。最も異質な存在が介入する。
「――なんなの? こいつ」
黒煙吐き出し燃ゆる集落の一劃、そこには一夜にして悪鬼羅刹の如き無惨な殺生を行うダラクがいた。今にも消え入りそうな二人の命を救うため、ウツロが放った乾坤一擲は疾風に薙ぎ払われてしまった。
今、ウツロの前に立ちはだかるのは年端も行かない少女だった。
薄布を纏い、その上に頭巾で顔を覆う。裾は短く、下肢は薄布が申し訳程度に垂れるのみ。臀から伸びる長く靭やかな尾は身の丈を超える全長を有し、己の腕より自在である。
「助かりましたよ。……ご覧なさい。あれが虚ですよ」
「ふぅん……」
戦況は三対一。ハラヴァンは敵側の増援を警戒しながらも勝機を窺い退避をやめた。
ウツロは女を救うために賭けた長槍の投擲は叶わず、今は得物を失って丸腰である。
「……へぇ。……黒くて、無口ね……」
ニァルミドゥは鎧から視線を外すことなく応え、両者は暫く睨み合い互いの力量を推し量る。
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「長居は無用ですね……退きましょう」ハラヴァンは言う。
「はぁい」間延びした返事で応えるもニァルミドゥは歩き出さなかった。目の前には頑として二人を護る鎧の姿。
三人の攻撃を全て凌ぎ、何も語らず、未だ油断なく両手を広げている。
その向こうには、首を切られることなく生き延びた女の姿があった。
四肢は折れて腫れ上がり、朦朧とした意識で這いつくばい、痛みさえ感じなくなった体で少しずつ、少しずつ、男のもとへ這っていた。男の方は気を失っているが、まだ息がある。
「守り抜いたってわけだ」ニァルミドゥは吐き捨てるように言い、何度目かの攻撃を試みた。
尾を真横に振り抜き、その先端は空気を切り裂くほどの速さに達している。最高速度で鎧の首を叩くが、堅牢な腕甲で弾き衝撃を受け流した。その上、鎧はあくまで二人の死守を優先している。埒が明かないほど鉄壁だと、ニァルミドゥもハラヴァンの判断を理解できた。
長引けば継承者がここに来てしまう可能性もある。
今撤退すれば鎧は追いかけることはないだろう。
「つまんないね」ニァルミドゥは呟き、ハラヴァンの後ろについて行った。
その道中、焦げ付いて煙を吐く瓦礫を通りしなに尾で弾き飛ばす。鞭のように靭やかで脅威的な膂力の尾は、狙い澄ましたように一点を目掛けて迫る。鎧の顔面だ。
硬いもの同士が衝突して盛大に弾け砕ける音がした。
砕けた石材が跳弾し、がらがらと毀たれた家屋の焼跡が土煙と火の粉を巻き上げ崩れ落ちる。
「あいつはあのままでいいの? 死んでないじゃん」
ニァルミドゥの問いにハラヴァンは首を振る。
「あの鎧は死なないのです。……というよりもともと生きていないというのが正しいのですかね……。ともかく焼くべきものは焼きました」
「あ、そ」不機嫌そうに言い、「集落の生き残り二人は」と言う。
「顔を見られてしまいました……なんの加護を受けているのかわかりませんが、仕留め損ねたダラクには責任を取ってもらいましょう」
「そのダラクはどっか行ってるけど……」
「次の指示を与えています」
ハラヴァンはどうということもなく言うが、手回しの速さにニァルミドゥは絶句する。任務で不手際があれば蜥蜴の尻尾切りだ。ダラクとは二度と会うこともないのだろう。
そんな風に沈思しているニァルミドゥの横でハラヴァンは呟く。
「……やはり、貴女は素晴らしいですよ」
「なにが?」
「ふふ……器としての素質です……」
ハラヴァンの言葉の意味を掴みかねたニァルミドゥは、片眉を吊り上げて言問顔をしたが、踏み込めば己の命数も減るような気がして、誤魔化すように尾を気まぐれに踊らせてみせた。返事を求めていないと言外に示すように。
まるで生まれたときから備わっていたかのような、臀から伸びた尾を自在に操る少女。ハラヴァンは静かに目を細める。その笑みは満足気であると同時、どこかほくそ笑むような厭世的な色を見せていた。
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一夜明け、継承者三名は前線へ向けて出発するはずだった。
ムーンケイで迎えた朝は暑く、夜通し熱の下がることのない鎔鉱炉は国一帯の気温を底上げしていた。ガントールは寝間着にじっとりと寝汗を掻き、喉の渇きに負けて重い体を起こす。部屋の窓辺に向かうと錠を外して隙間を開け、蒸した空気に風を通した。歪んだ硝子越しに外の様子を眺めては、山向こうの稜線に朝日が顔を覗かせているのを見つめた。
藍色の空に千切れた薄雲が黄金色に染まっている。暑い一日になりそうだとガントールは天気を読み、そして遠景にふと目を凝らす。
朝霧か……いや違う。
宿の窓辺から見下ろす下層の景色からさらに向こう、マハルドヮグ山の渓間沿いを下った地帯――あそこはナルトリポカか――に、濁ったように濃い霧が滞留している。一度は朝霧かと思ったが、ただの霧ならもっと広範囲に薄く広がっているはずだ。これは局所的に蟠っている。……なにか変だ。
ガントールは昨晩の記憶を辿る。
確かアーミラの部屋へ行ったとき、私は窓の外を見たはずだ……あの時も窓外の景色は赤かった。当然だ。街全体が溶鉱炉を常時稼働させているのだから。
さして気に留めていなかったが、こうして閑散とした朝の山を見れば、黒煙の出処はムーンケイではないぞ……。
にわかに肌が総毛立ち、ガントールは直感で不穏を悟ると隣の部屋へ飛び出して扉を叩く。




