39話 先に手前から殺そうか
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「おっと、失礼」
畦道の途中で足を止めていたハラヴァンは、ふと自分の後ろで人が立ち往生していることに気付き、道を譲った。
「覚束ない足取りでハラヴァンの前を横切った者は、意識があるのかも定かでない。挨拶もなく、そのまま燃え盛る集落の中へと消えていった。ハラヴァンはその列を見送って、再び道の真ん中に立ち、教会堂跡へ視線を戻す。
右を見ても左を見ても家屋からは火の手が上がり、肺を焼く煤混じりの熱波が木酢の臭気と火の粉を舞い上げ吹き荒ぶ。とうの昔に焼け落ちていた教会堂の跡地はこの集落で唯一延焼を免れているため、ハラヴァンはこの夜をここでやり過ごしていたのだ。
風の中に、火の粉とは異なる燐光がひらりと舞い、羽虫のように浮かんでは消えていく。それはこの地に満ちる魔力の奔流が可視化されたものだった。ハラヴァンは気怠そうに肩を落とし、まだしばらくこの火事は収まらないと悟った。
「はやく、終わらせてもらいたいものですねぇ……」
一人呟き、徐に畦道から家屋の近くへ歩み寄ると絶命に怯える赤子の泣き声がくぐもって壁越しに聴こえてくる。火の気の音以外にはなにも聞こえない静かで異様な夜にあって、赤子の張り上げる破鐘のような声ははっきりと耳に届く。……だからといって助ける素振りはなく、ハラヴァンは通り過ぎていく。
人々には炎が見えず、彼には声が届かない。
ざあざあと篠突く雨と、炎に爆ぜる家屋の断続的な音だけが一帯に響いていた。立ち昇る濡れた土の匂い、熱の香りには髪や爪、腸が炙られる強烈な臭気が混じってきた。その臭いに釣られて野獣が炎を傍目から窺っている。今はまだ火を恐れて林の影に潜んでいるが、一夜明ければこの雨が火を消し、残った屍肉を喰い漁るだろう。
気付けば赤子の声が止んでいる。
ハラヴァンは無感動な顔をして歩いている。
その目の前、集落の中程に開けた場所がある。当時は広場だったのだろうそこが火の海となる前、異変に気付いた者たちはここで身を寄せ合っていた。
今、この場は火柱が上がっている。一度はみな蜘蛛の子を散らすように広場から離れ、ある者は己の家に錠をかけ閉じ籠もり、ある者は追手から逃れるために森へ逃げた。いずれにしても結末は変わらず、身体を操られこの場に列を成し、火を囲んでぐるりと大きな輪を描くと、声も挙げずに自ら火の中へ投身していく。
「ダラク……まだなのですか?」
ハラヴァンは炎の側に立つ男――ダラクに問いかける。
彼は髪を掻き上げた。あらわになった彫りの浅い額と薄い眉、双眸は鋭く吊り上がり、人相は粗暴である。そして額には細く枝分かれした頭角が左右不揃いに生え伸びていて、虫の触覚のようだった。口元は愉快そうに歯を覗かせてハラヴァンに視線を返す。
ダラクの足元には二人の男女が転がっていた。苦しそうに呻いているが集落にいた人達とは違い、表情には意志があった。
「少々手間取っちまってな。畑ってのは存外湿気って燃えにくい。それに臭い。そのうえ何故だか此奴等だけ――」
ダラクは地べたに転がる二人のうち男の方を容赦なく蹴飛ばした。男は既に瀕死の様子で痛みにうめきながらも身をかばうこともできずその場からごろりと裏返るようにして転がる。
「――呪術が効かねぇんだ」
男は仰向けに倒れ口から血を吐き咳いた。苦悶に歪む表情に力が抜け、呼吸が弱まる。側にいた女はふうふうと荒く息をついて腹這いで両手を引きずり男のそばへ這い寄る。ハラヴァンはその姿を見て二人が両手足の骨を折られていると悟った。女は男の身をかばうように上から覆い被さり、ダラクの方を睨みつける。が、ダラクは女の前でしゃがみ込むと、懐から切り出し刀を取り出して首に突き立てた。鋒が女の首に刺さり、小さな傷口から細く血が流れ始めた。
「……先に手前から殺そうか……なぁおい」
その目を見れば理解る。この男は、まるで家畜を屠殺するかのように迷いも葛藤もなく人を殺せる。
女は泣きながら、折れた両足を芋虫のように引きずってダラクから逃げようとする。
本当は男の側に寄り添いたいのに、状況がそれを許さない。
逃げなければ殺されてしまう。
恐怖、混乱、葛藤は綯い交ぜになって、女は地べたを這い回ることしか出来なかった。腕も脚も、関節が増えたようにくねくねと体についてまわり、四肢自体が枷となってしまっていた。わずか一寸を進むのにも、耐え難い激痛に苛まれる。
「はっ、誘ってんのか? なぁよ。どこまで逃げられるかな? ほら、ほら」
ダラクは女を責め立てるように、わざと緩慢な歩幅で追いかける。歩くよりも遅いくらいだが、腹這いで逃げる女には振り返る余裕がなく、絶望の中を進み続ける。
「死にたく……ない……じに、たくない……っ!」
「怖いか? お前も、あの男も、術に掛かっておけば楽に死ねたのになあ」ダラクは凶暴な人相を愉悦に歪めて言う。
女は長い時間をかけ、僅か十数歩分の距離を進んだ。眼の前には人の列が檻のように行先を阻む。輪になった人々は女に気付いてはくれず、緩慢な足取りで道を開けてはくれない。
ダラクが女に追いつき、引きずっている裸足の土踏まずを踏みつけた。腱が伸び、割れた骨が肉にくい込む。激痛が走り、女はたまらず呻き声を洩らした。ダラクはもう一歩踏み込み女の服の裾を踏むと、身を屈めて髪を乱雑に掴み上げた。弓なりに背をそらされて首を晒す。掻っ切られるかと怯える女に耳元で囁く。
「……お前は最後だって決めてんだ。男を先に殺す。そこで見てろ」
ダラクは女の顎先を掴み凄んだ。殺気に満ちた視線を前に女は睨み返す勇気さえ失われていた。
男を助けることも、自身が助かる見込みがないことも理解して、目に涙が溢れる。ダラクは女の顔を横へ投げるように押し倒すと、思わず折れた腕で受け身を取ってしまう。前腕中程からぐにゃりと折れて頬を地面にぶつけ、情け無さに唇を噛む。腕の肉の内側で血が溜まっているらしく、女の白い細腕が痛々しい紫色に腫れ上がっていた。
だが、泣いている暇はない。ダラクは男の方に向かっていた。
女は本当に必死で、使い物にならない四肢を使って男の元へ這い寄ろうとする。ダラクはすでに男の上に馬乗りになっていた。躊躇いもなく心臓を目掛けて切り出しを右手に握り、柄の底部を左の手のひらで抑えると一息に刃を沈み込ませる。
「あぁぁっ……! アダン!! ……嫌……嫌ぁ……っ!」
眼の前の凄惨な光景に心が崩れ、シーナは絹を割いたような悲鳴を上げる。
次は私が殺される……ひとりにしないで……お願い……。
息もできないほどに声を振り絞り、女は滂沱の涙を流す。膝をつき、目を閉じ、必死の祈りを捧げるしかできなかった。
誰か……誰か、助けて……!
そして祈りは届いたのだ。
凶刃が振り下ろされ、アダンの胸に沈み込む既のところで青い光が刃を阻む。ダラクは反発する力に負けじと腕に力を込める。呪術が効かなかった二人だ。何かしらの加護を受けていることは予想できていた。
ダラクは力むほどに口角を吊り上げて、笑みは凶暴性を増していく。刃は結界とぶつかり、まるで湧き水に栓をしようと奮闘しているようだった。わずかに届かず、アダンの胸には刺さらない。びくともしない。
ダラクの顳顬に一筋の汗が流れる。
キシ――
と、不意に聴き慣れない物音がしてダラクは笑みを消した。厳しく周囲を伺う。
「遊んでいるせいですよ。敵が来てしまいました」
ハラヴァンは既に剣呑な面持ちで音のなった方へ構えた。外套の内側に手を差し込み、今度は勢いよくその手を振り抜く。針を投げつけたか、細く火柱の明かりを反射して炎の中へ飛んでいくと、倒壊した家屋の火の海から円を描く閃きが針を弾いた。




