火の中へ
「……この部屋も上階も、整理したら使えそうですね」アーミラは言うが、その顔は既に心を決めている。
「先代も好き勝手に使い倒したのじゃろうて、棚に飾っておるのも大概の値打ちものと見える……というより、二百年前のものがこうして現存しておればどんなものも貴重か」
二人はこの部屋の価値を推し量り満足そうにしているが、ガントールは窮屈な部屋に早くも辟易している様子。螺旋階段の欄干に持たれながら身を低くしている。埃の薄く積もっている現状では先代のように天井に角を擦って歩き回る気にはなれないらしく、階段に片足を乗せている様は戻りたい気持ちの表れだった。
「値打ちっていっても私達は金持ちになる意味がないし、魔呪術を学ぶための部屋なら二人が好きに使いなよ」
「言われずともそうさせてもらう。この驚異の部屋はいい拾い物じゃな」
平然とオロルは言うが、そもそも見つけたのはアーミラの手柄。二人のものとするのは少々不満であった。私が継承した神器なのに。
「わ、私は、今晩ここで過ごしますので……」
ガントールが階段を三段ほど昇り、オロルも後に続いて手摺を掴んだ時、アーミラはこの部屋に残ると言った。彼女なりの所有権の主張であることはオロルなりに理解したが、とはいえおとなしくその線引に従う質ではない。
「ならば掃除しておけ。明日から使えるようにのう」
莞爾りと笑って嫌味を返すと、気弱な姉を地下に残してオロルは階段を上がっていった。押し出されるようにして姿が見えなくなったガントールが「ウツロには伝えておくよ」と言い残して、後にはしんとした無音が耳を襲った。
隔絶された杖の中。アーミラはオロルの不遜な態度に機嫌を損ねながらも、気を取り直して自室となるこの部屋の整理を始めた。オロルの図々しさはどうやら生来のもののようだ。ならばむしろ、この一夜で先に唾を付けて自分都合で整理してしまえばいいのだ。私だけの自室を整えてささやかながら領有権を主張しようと、アーミラは考えた。
もとより杖は次女の継承した神器、優位性は揺らがない。そうと決まればまずは手近の灯檠の灯石を新しいものに取り替え、アーミラは部屋を照らした。どうやらオロルの言うとおりここは驚異の部屋に相違ないようだ。
「まるで小さな神殿ですね……」
石を交換し終えて灯檠の明かりが広がると、目の前の棚に収められた無数の品々が露わになった。骸骨、古文書、奇妙な形の鉱石、未知の動物の剥製……どれも見たことのないものばかりだ。硝子瓶に保管された得体のしれない薬液の類いに、所狭しと床に転がる物品でさえもどれほどの価値があるのかわからない。
アーミラはその一つをそっと手に取る。……こんなもの、どこで集めたのだろう。
彼女の脳裏に、かつて読んだ本の一節がよぎる。
『驚異の部屋――それは魔呪術師が己の知識を誇示するための陳列室』
アーミラは唇を引き結んだ。
――……ここは、ただの物置じゃない。
魔呪術師の叡智の証――そう思うと、この部屋が途端に特別なものに思えた。
アーミラは、これは骨が折れるとうんざりしながら、一方でこの部屋に居心地の良さを感じていた。外界と違い、この部屋には生物の気配がない。埃こそ溜まっているが蜘蛛の巣は無く、おそらく先代は虫や生き物を中へ招きはしなかったのだろう。この部屋にはどこまでも静謐な時が流れ、この場にいる一時だけは肩の荷を下ろすように緊張を解いていられた。
❖
「あれ……いない」
驚異の部屋から抜け出したガントールとオロルは、アーミラの宿部屋を出てウツロに伝言をつたえようと廊下を見回すが、姿が見えない。
「奴は外にでも行ったんじゃろ」オロルは興味なさげに言い捨てると、早々に自室へと戻った。取り残されたガントールは逡巡の末にさほど気に留めず、こちらもまた部屋へと戻る。
この時ウツロは単身でナルトリポカへ向かっていた。
眠れぬ夜を彷徨くため……ではなかった。アーミラの部屋の様子を窺い、継承者達が忽然と消えたため探して回っている……というわけでもない。
ウツロは単身、不吉の予兆を認めこの夜を駆け出した。距離にして片道三刻程、マハルドヮグ山を登らず横断する道であるため、ウツロが急げばもっと速い。
問題は、その地に起きている異変であった。
❖
マハルドヮグの山野を濯ぐ夜雨の雲が南に流れ、二代目国家ナルトリポカには今宵もじっとりとした風に冷たい粒が混じる。湿った土の匂いが立ち昇り草叢に潜む虫たちは初夏に先んじて銘々《めいめい》に翅を鳴らしていた。そして夜闇を覆う重たい天幕の下、風情をかき消す火柱の猛る喧騒があった。
集落が燃えている。
収穫を待つ畑も、石積の家々も、一切が火の海だった。
割れた窓枠や扉は既に炭となり、内部で燃え盛る火がもうもうと黒い煙を噴いている。
灼けた石材が熱に爆ぜると、一帯の虫は身の危険を感じたか鳴りを潜めて夜を明け渡した。
今や集落は見る影もなく、激しい熱波と荒れ狂う焔……本来あったはずの平穏な夜が壊されてしまったのだ。
ごうごうと燃焼する音が響き、目も開けられないほどに黒煙が充満し始めた。これだけ大きな火柱が夜闇に立ち昇るのだから大変な騒ぎになる筈であるが、集落の者達はもっと様子がおかしいのである。赤く照らされた道を歩く人影は乱れがなく、誰も声を上げず、騒ぎ立てる者もない。まるでこの火が見えていないかのように畦道や家の周りを列をなして徘徊していた。……例え火がなくとも、こんな夜半に人が列をなして歩くのは異様である。
その者たちは皆、胡乱な目をして魚尾は赤く腫れ、涙が岩清水のように流れて煤けた頬に筋を残している。半開きになった口は熱風に焼けて唇がひび割れている者もいた。微かに覗く舌も白く渇いて萎びている。
それなのに、誰一人として目を拭うこともなく、唇を湿すこともない。みな感情が抜け落ちたような有様で、誰が先頭に立つか申し合わせるでもなくふらふらと道なりに合流し列をなす――この集落の者達は皆、呪術により体を操られていた。
贄を欲する業火のように遠慮のない火勢が風に煽られ鼻先を炙り髪を焦がす。ある者は火の粉が服に移り、肩口から燃え広がって肌を焼いているというのに火傷を気にする素振りがない。畦道には夥しいほどの血の足跡が残されている。焼けた石を踏み、足の裏の皮が剥がれたのだろう。あるいは割れた硝子を踏んだ者もいるに違いない。彼らは血を流し、火達磨になりながら歩き続け、呼吸が出来なくなると静かに路肩に倒れる。その火は草叢を経由して民家を燃やした。
人が死に、列に隙間ができると後続は距離を詰めた。
己を葬る火葬場へと、葬列の歩みは淀みがなかった。
篠突く雨が振り始めたが、火の勢いが衰える様子はない。
人々は合流を繰り返し長いながい列となって広場にたどり着くと、その中央で燃え盛る炎を囲むように先頭がぐるりと列の最後尾へ繋がり、尾を噛む蛇のように輪を描いた。
輪の中心となった炎は魔力を高めて空へ伸びる火柱となり、その蛇は蜷局を巻き、怒り狂う火勢となった。……その隣、聖火を守る司祭のように悠然と立つ男は、揺らめく炎にぎらぎらと照らされ、歪んだ笑みで号令を飛ばした。
「一人ずつ火の中へ入れ!」
胡乱な表情の人々、その瞳の中に声にならない断末魔の叫びが映る。