35話 ここで買わせてもらいましょう
ウツロは抗議することもなく一歩下がり、片目をつむって鉱石を見つめるアーミラの背中越しに立つ。
「これは魔鉱石の中でも紫水晶と呼ばれるものです。象嵌用加工が施されていない原石ですが、加工後はもっと硝子に似た透明な石になります。この店ではこれが一番高価かと……。
あとは、酔いを防ぐ力があると言われていて、幻惑の呪いに強く、明晰を助けます……呪術向きの石ですね」
――石によって向き不向きがあるのか。
鎧はアーミラの背中に指を当てて問う。くねりと弧を描く最後の文字は疑問符を指先で描いたのだろう。
「ありますよ。すべての魔鉱石、すべての魔呪術にはそれを形作る物語があります。この紫水晶は明晰と夢現についての物語を宿しているんです。
とはいえ、不向きな術にも使うことはできますし、人によってはあまり気にしなかったり、ウツロさんのように向き不向きの知識を持たずに使う人もいます」
――詳しいな。
「そんなことは……ないです……」
ウツロに他意はなく皮肉のない言葉だったが、アーミラは狼狽えて否定した。
傍から見ればアーミラだけが独り言を呟き続けているようにしか見えない。露店に立つ少年は不思議そうに見上げながら、継承者の後ろに立つ鎧の声が聴こえているんだろうとなんとはなしに理解していた。そして、アーミラの話に「はぁ」と声を漏らした。
「おいら知らねかった。無理に使うと駄目なんか?」
少年は無邪気に首を傾げる。相手が子供だからか、それとも魔鉱石の話題だからか、アーミラは返答に言葉をつまらせることはなかった。
「駄目ということはありません。ただ、消費が激しいんです」
少年はまた「はぁ」と言う。相槌の癖なのだろう。「なら、知らねほうがいいな。たくさん使ってたくさん買ってってけ」そう言って歯抜けの顔で笑顔を向けた。アーミラは面食らったように一瞬肩をこわばらせたが、すぐに脱力し、相好を崩して頷いた。商売の駆け引きもなく買ってくれと言う少年を前にして、警戒する気が失せたのだろう。この少年は数ある露店の中で唯一アーミラのお気に召したのだ。
「では、手持ちがある分はここで買わせてもらいましょうか」
アーミラの返答に少年は一旦は「毎度あり」と返したが、表情はとても嬉しそうだった。すぐにでも飛び上がりたいといった顔だ。対してウツロは水を指すようにアーミラの背中に指を伸ばす。
――手持ちは必要ない。継承者はその刻印を手形に借款できるだろう。
と、書いた。難しい言葉には意味を掴みかねたが、鎧が言いたいのは「継承者は金を払わなくてもいい」ということだ。これはアーミラにとっては無粋な横槍で、むくれた様子で答えた。
「知っていますけど……それじゃああの子、今日のご飯が食べられません」
アーミラの見立ては正しかった。
まず継承者の懐事情について。
継承者は刻印を宿し、神殿で正式に出征を認められた時点であらゆる物資の調達は金銭の交換を伴わない。身元の保証は神殿持ちであり、刻印を提示して身分を証明できれば、借款契約が成立し、商人の手元に入るべき貨幣は後日神殿から補填される。
しかし今、目の前にいる少年は見るからに日銭で口を糊する生活と見える。契約書では晩飯は買えない。神殿から補填される金が手元に届くまで餓えを凌げるかどうか。この少年がひもじい思いをするのはアーミラにとっても不本意であった。
――いくらあるんだ?
手形で買わないとなればアーミラの手持ちの金が問題だ。もとよりウツロは手元不如意である。アーミラは袈裟の内側にしまっていた巾着袋の縛りを解いて覗きこむ。掌に乗せた量感からしてそれなりにありそうだった。
「すべて銅粒ですが、合計なら金棒二本分には届くんじゃないですかね」
そういって「ほら」と巾着袋を開いてみせた。対してウツロは中を覗こうとはしなかった。アーミラにとってはナルトリポカで貯めたそれなりの額なのだが、ウツロには豚に真珠、貯金の苦労など理解がないのである。
……ここで貨幣制度についても説明しよう。
この世界に存在する物質は金属と非金属に大別され、うち金属は霊素に感応しないという特徴を持つ。魔呪術の影響を受けないというのは貨幣偽造の危険性を遠ざける利点であり、そのうち金銀銅を貨幣として流通し、現在では継承者が訪れているここ三代目国家ラーンマクが神殿のお膝元に造幣を担う。
価値は以下のようになる。
金版1=金棒5=金粒25
金粒1=銀板1=銀棒5=銀粒25
銀粒1=銅板1=銅棒5=銅粒25……
まず最も高価な貨幣は金であり、下に銀、銅と続く。
そして貨幣の形状も板、棒、粒の三種存在する。一つの板は平たく薄い四角形で縦と横に五等分の折り目を付けられている。これを折れば棒となり、棒を折れば粒となる。
銅粒1以下の価値を持つものは正式な売買契約とは認められず、隣人同士での物々交換として扱われる。
粒や棒は取り扱いがしやすく、アーミラのように巾着袋に入れて携帯するが、保管には板が好まれる。端数の支払いには板や棒を割ることで対応する。一度割った粒や棒は炉に溶かして再び板へ形成が可能である。再形成は造幣を担うラーンマクだけでなく、国から許可を得た鍛冶屋でも精錬できる。ちなみに再精錬の過程で貨幣は不純物が落とされ純度が増していくため、少しずつ小さくなる。
不純物の中に混じる金属は必然的に鍛冶屋の報酬となるが、法外な上澄みをくすねるぼったくりな鍛冶屋もいるため、見極めなければならない。
アーミラは尚も少年の店で石を選びながら、鎧を相手に薀蓄を語る。
「魔鉱石がそれぞれに由来する物語を持つというのは話しましたが、魔術陣を刻めば石に力を貯めておくこともできるんですよ」
――どういうことだ?
ウツロは素直に首を傾げる。まるで子供が親に教えを乞うようだった。アーミラは頭の中で言葉を組み立てると、説明を続けた。
「物語を補強するという感じです。……石に物語があるのと同じで、術者個人にも物語はあります――まあ、これまでの記憶とも言えますが――それを結びつけることで、固有の術式を構築するんです」
アーミラは「例えばこの石を使いましょう」と言って銅粒の詰まった巾着に指を差し入れて一つまみの貨幣を少年の手のひらに支払った。
「この石はごく単純な灯石です。神殿でも夜は燈されていたので知ってますよね」
この石にも物語があるのだと、アーミラは言う。人類が火を手に入れ、そして人と共に文明を開いた物語を、一言一句間違えることなく諳んじてみせた。
――始原に在りしは、火なり。
人の子ら、炎を見つけ、
地を灼き、木を焚き、屍を焦がすを畏れたり。
人の子ら、枝に火を宿し、
棲み処に携えて、静かにその熱に馴れたり。
遂に人は、火と共に歩みたり。
火は光を齎し、闇を祓い、穢れを逐いぬ。
やがて人の子ら、火を操るに至れり。
焰は森を切り拓き、道を開く力となりき。
やがて人の子ら、火にて営みを紡ぎたり。
火は術となりて魔を招き、魔術の胎動と化せり。
魔術は文明と共に歩みたり。
文明は光を齎し、世界を照らしぬ。
されど――光の傍らに、常に闇は在りぬ。
「――これが灯石の物語。そして私には私の言葉があります。それを術として物語を構築すると、術式がこの石に保存されます。それ以降はいちいち唱えなくても、すぐに術式を行使することができるんですよ」
――呪文を刻んでおけば、唱える手間を省けると言うことか。
アーミラが満足そうに微笑んだのでウツロは首を傾げるのをやめた。
「そうです……だから、強い者ほど石を着飾ります」
「おい」
アーミラの言葉に被さるように、背後から不意に声がかかる。どきりとして巾着を握りしめ、アーミラは声の方に顔を向けると、そこにはオロルが立っていた。
絢爛豪華という言葉が似合う賢人の姿にアーミラはしばし呆然と見つめ、思わず笑みをこぼす。面の無い鎧でさえも、この場では愉快そうにオロルを見つめていた。
対してオロルは怪訝に眉をしかめて不満そうに「何を笑っておる」と言った。
継承者の正装にあらん限りの魔鉱石を縫い付け嵌め込み、耳に揺れる飾りにも玉に磨かれた宝石が輝く。つい先程の言葉……なるほど。
――強い者ほど着飾る、とはこういうことか。
「ええ、まさに」アーミラは可笑しくて口元を手で隠した。
背中や腕に触れて、筆書きのように指で筆談する鎧を見て、オロルは片眉を吊り上げた。この二人……いや、鎧の方は知らんが、アーミラは随分と心を開いたな。




