31話 面を上げよ
壇上に設けられた継承者の玉座は硬く、華美に象嵌細工を飾るもので、格式も高ければ背もたれも高い。浅く腰掛けて肩を縮こまらせているアーミラは緊張に身が休まらず、指先は手遊びをして落ち着かなかった。
――式典を経て、私達は神格化される。
現実味の無いその事実を頭の中で持て余しながら、アーミラは始終不安げに今日を過ごすこととなった。
式典に列席する各国王の挨拶が続き、各々が歴史的瞬間に立ち会えたことを言祝ぐ冗長な挨拶が続く。国王はいずれも内地側の血縁ばかりである。
つまり先代の継承者に由来を持ち、信仰に篤い者が多い。盲信と呼べるほどの者すらいた。
彼らは二百年の渇望をまるでその身で体験してきたかのように口々に語るうえ、古い仕来りに沿って固陋で詠唱じみた平仄を取る。
そのため継承者は聴いている間に臀が痺れてきた。
オロルは座面に身を委ね、内心では辟易していた。……同じことしか言えんのかこいつらは。
儀式は中盤に差し掛かり、壇上の脇に移動したカムロは国王列席の卓へ深々と頭を下げると今日の本懐である『心像灯火』を執り行うことを宣言した。その言葉を合図に聴衆である神人種から国王まで天帝に向かい叩頭いた。私達も頭を下げるべきかとアーミラは顧眄して、ガントールが頭を下げないのを見るとそれに倣った。天帝の登壇に対して拝礼を行わないのは不遜に思えるが、今の彼女達は継承者であり女神の地位に座しているため神の末裔より上位である。
至聖所の暗がりに紗を掛けて身を休めていた神族の帝が徐に椅子から立ち上がり、近衛が紗を左右に開くとその姿を大衆の面前に晒した。
その神々しさは目を潰すとまで口伝される天帝ラヴェル一族の長。その名をラヴェル・ゼレ・リーリウス。神の血を引くという逸話の通り、背丈は獣人種を超え二振半ほど。最早アーミラから見れば天を衝くほどの巨人である。更に日に透ける白髪と顎髭は枝垂れのようにうねりながら腰元まで届き、身に巻き付けた一枚布の衣と相まって人の域を超越した神聖さを醸し出している。
歳は六十に差し掛かるほどか、額や目尻に深々と刻まれた皺が厳格な人相を形作り、射抜くような賢しげな視線は衰えを感じさせない。
何よりも目を奪うのはその後姿だ。衣に覆われている大きな膨らみ、肩口や裾からこぼれ落ちんばかりに豊かな純白の羽が覗く。……この翼こそ神族と人とを隔てる、最も顕著な特徴である。
人波を割り継承者の座する壇上へ一歩一歩と悠然と進む天帝。
叩頭する者達はつむじを晒してその背中を追いかける。
「面を上げよ」天帝の低い声が響く。
壇上に上がったことを確認して聴衆はそろそろと顔を上げる。天帝リーリウスは継承者の前に立っていた。壇上の中央に座していた次女継承アーミラは、その巨躯から落とされる陰に覆われ、向けられた眼差しの意味を計りかねて素直に戸惑った。隣にいたガントールは顔にこそ出さぬように努めたが意思に反して耳がぴくりと反応する。声がする……アーミラになにか伝えている……?
首を向けようか悩む間もなく、万事整った事を告げるカムロの声が割って入り、どっと場が色めき立つ。万雷の拍手を受け、ガントールは努めて笑みをつくると聴衆へ会釈を返し、アーミラとオロルもそれに続いた。リーリウスはゆっくりと間を置いてから身を翻し、聴衆の方に手のひらを向けて拍手を収める。
「……当代の継承者は、数えて五代目の継承者となる――」
リーリウスの含蓄のある嗄れた声が中庭に響もすと、会場は一語たりとも聴き漏らすまいとしんと口を噤む。
「――誰もが承知の通り、先代から二百の夏を数え、冬を越えた。先代の顔をその目に見た者達はこの世を去り、遺された願いを継いで我らがここに集まっている。その願いとは何か、……勝利だ。
長きに渡る禍事を退ける、神の血を分けた三人の御子。今この場に継承者が揃うという祝いの日を、共に迎えたこと、大変喜ばしく思う」
リーリウスは言葉を切りガントールの方へ手を示すと一人ひとりの紹介を始めた。これもまた詠唱の平仄に沿った律を持つ。
「この世の厄全てを平らげ斬り払うこと能わざるは無し。魂魄の導。天秤を司る三女神の長女。名をリブラ・リナルディ・ガントール。産まれは四代目長女国家ラーンマクの守護辺境伯であるリナルディの娘である」
ガントールは瀟洒に玉座から立ち上がると堂々と胸を張り視線を返す。見目麗しく家柄も申し分無し、誰もが思い描いた通りの長女継承者の勇ましい姿に中庭の聴衆は静かに興奮の焔を上げた。
「幽玄なる万物の解を齎す神秘の扉。現世に落つ智慧の果実。天球儀を司る三女神の次女。名をアーミラ・ラルトカンテ・アウロラ。流浪の旅路に記憶を落とした娘であるが、その身を尽くし、この国のために奉仕することを誓ってくれた」
アーミラは紹介が終わると玉座から立ち上がり初々しく裾を掴んで集まる視線に堪えながら一礼した。神人種も、彼女が継承者となってまだ日が浅いことは理解しているので、場の雰囲気は和やかなものになった。リーリウスがオロルの方へ足を向けるとアーミラは集まる視線に耐えかねて腰を下ろしたくなったが、ガントールが手を水平に振り、「三人揃うまでそのまま」と視線を送った。
「未だ明らめぬ機巧の心臓、刻々と奏でるは糾う律動か。柱時計を司る三女神の三女。名をチクタク・オロル・トゥールバッハ。産まれは三代目国家ムーンケイ島嶼卜部族の娘である。どうか祈りの果てに嘉し給わんことを」
二人に倣い、オロルも玉座から降りて立ち上がる。聴衆には目礼のみを返し、金色の瞳は人の群れを見定めるかのように眺めおろしていた。
「五代目も、三女神継承者が揃った。……これより心像灯火を始める」
天帝リーリウスが声高々に告げると中庭一帯が発光し、聴衆は再び叩頭いた。辺りにはちりちりと季節外れの舞雪のように燐光が浮かび、地面が仄明るく光を発する。円形の本殿そのものが陣を描き、儀式のための詠唱は継承者の紹介の折に済んでいる。
この儀式を一言で表すならば、女神継承者を非死へと昇華させる神殿の大祈祷である。『心の火を像に灯す』――それを持って心像灯火を成す。この儀式が行われるようになったのは先代である四代目継承者の出征式からで、二百年の歴史を持つものの、術式を展開するのは通算二度目。
当然ながら術者である神人種達は先代の大祈祷を経験しているわけもなく、人生最初で最後の詠唱。彼らにとっても一世一代の大舞台といえる。
大祈祷は先述したとおり術式の対象者を非死とするものであり、非死について詳しく言うのであれば、生存率を底上げするために肉体と魂を分離させる術式である。つまり、三人の娘の魂は神殿の巨像に祀られ、その魂――霊素――を保管することで前線での致命的損傷を免れる。そして大祈祷によって尋常ならざる治癒能力を獲得した肉体のみを前線へ送るのだ。
とはいえ、魂を抜いたからと言って人格や情動に影響が出るということはなく、また不老長寿を獲得するわけでもない。不死ではなく非死であることは、継承者各々も十分に頭に刻み込む必要がある。同時に、神殿の巨像三柱に祀られた魂についても無知でいることは許されない。神殿が墜ちたとき、その巨像が毀された場合は魂を喪失するだろうことは明白だ。ガントールやアーミラはその事実を理解していたが、オロルはさらに深く受け止めていた。つまりこれは「己の魂そのものが人質」だと。前線を守れなかった場合は逃げ場もなくその心臓を敵前に晒すこととなる……端的に言えば、この先敵前逃亡は死を意味するということだ。




