生きてこそ成す使命を果たせ
午前ももうすぐ終わる頃、カムロは筆の尻骨で顳顬を押すように掻いた。その顔には疲労の色が滲んでいた。
アーミラも話し続けることに疲れたようだ。元々訥弁とした性格故にときおり肺を引つらせて喉を撫でていた。催眠下になければこれほどの時間をかけて語り続けることなどなかっただろう……いや、マナと過ごした日々の中では、あったのかもしれない。
カムロは小さく息を吐いて呼吸を整えると視線をアーミラに向けた。およそ知り得るすべてを知った今、目の前の娘に対する想いは複雑なものだった。覚悟はしていたが、使命を背負わせ前線に向かわせることに良心が痛まないわけではない。
先代の継承者が非業の戦死を遂げた記録も存在する。むしろその方が多いくらいだ。
当代継承者の行く末だって生きて帰る保証はできない。
不憫な娘に対し、出征の可否を判断する責任が、カムロの肩に重くのしかかっている。
――お師様がそこで死ぬのなら、私もそこで死んでいいと思っていました。
アーミラの言葉を思い出す。
朦朧とすることは呪術の特性上しょうがないことではあるが、自身の半生を語る少女が時折見せる憂いの表情……当時の情景を思い出しながら語る彼女の姿は、見ていて胸が締めつけられるようだった。嘘偽りを封じられ心を曝したこの娘は予想していたよりも希死念慮の閾値に近い所に身を置いているように見える。
だとするとこの試験には懸念が生じる。彼女が次女継承者として、前線で役目を果たすことができるかどうか。それを見定めなければならない。
「アーミラ様……最後にお答えください」
沈黙を切ってカムロが口を開くと、掠れた声でアーミラは応えた。
「……はい」
「アーミラ様、貴女は……己の死を今も願っていますか?」
カムロの言葉にアーミラの瞳が開く。虚を衝かれた顔をして、しばらく言葉が出ない。カムロは追い打ちをかけるように畳み掛ける。
「お答えください」
「……分かりません。あのときの私は死にたかったのかもって、思います。
でも、生きることを選ぶのも、死を選ぶことも、恐ろしいことです……私は、なんというか……」
アーミラはここでまた思考の深みに潜り込む。朦朧とした譫言のような呟きが繰り返されるがカムロには聞こえない。その態度から言葉を探していることはわかるのだ。辛抱強くアーミラの結論を待った。
「……お師様はそれをきっと望んではいませんし、私には救いの手もありました。生きることは私にとって消極的な選択、あるいは選択そのものを放棄した結果なのかも……死を選ばないことはそのまま生存が継続される……私は選びたかったわけじゃなく――」
アーミラはこれまで言語化しなかった己の心に気付きを得たか、目に光が宿る。
「――選ばれることを待っていたんです。あの時私は死に選ばれたかった。お師様を失ったとき、その絶望が私に与えるものは、死こそ相応しいと願っていました。そうして終わる命こそ救われると」
カムロは何も答えない。
死を選ぶのも、生を選ぶのも放棄して、目の前の継承者は今日まで生きている。それは、ごく自然な成り行きだった。老体ならばまだしも娘は若く、生命は活力に溢れているのだ。魂が弱っていようと肉体は全盛。自ら選択を放棄すれば今しばらくは衰えを知らず死にはしない。それこそ、前線にでもいない限りは。
「……アーミラ様」
「……はい」
「アーミラ様が仰るとおりなら、貴女はその身の生き死にの選択を放棄した果てに刻印を宿し、次女継承者となりました。師マナ・アウロラから授かった魔呪術の知識と術を遺憾なく発揮する前線での活躍を私共は期待しておりますが……貴女はどうでしょう? その刻印を宿したとき、どのような心境でしたでしょうか? 戦火に身を投じる運命は『死に選ばれた』とお思いでしょうか?」
真剣な眼差しで問う。ここで頷くのであれば彼女はきっと望めないと、カムロはそう考えていた。
継承者の素質がないと判断すればこの娘の出征を取り止める。私にはその責任がある。
午後から始まる式典までに見極めなければならない。
一人の娘を前線に送るだけでも神殿は多くの対価を支払うのだから、無駄死にするものを認めるわけには行かないのだ。
三日に渡る式典も道楽で行われるものではない。祭りではなく政。
人々は継承者に祈り、奉り、希う。
国が三人の娘に進退を賭けている。
だからこそ見誤ることは許されない。
カムロは次女を抜いた継承者姉妹二人での出征に変更することさえ覚悟した。
しかし、それは杞憂であった。
「……私は、死に選ばれたとは思えませんでした――」
アーミラはゆっくりと、明確に首を振る。
そして言葉を続けた。ぽつりと、それでも確かな声で。
「――私は生に選ばれたんです……生きること、『生きてこそ成す使命を果たせ』と言われた気がしました」
カムロの表情が、かすかに揺らぐ。
彼女は筆を握る手をわずかに緩め、アーミラを見つめた。
「刻印が刻まれたときの痛みを今も覚えています。心臓に杭を打たれたような、……それこそ死にそうなくらいに痛くて、その痛みの中で気付いたんです。
生きているんだって。
たとえ消極的であろうと、人とのつながりを避けようと、命から逃れることはできないんだって……この胸に突きつけられたんです」
その言葉にカムロは耳を疑う。これまでの弱々しい雛鳥のような少女の面影は消え、語調には迷いがない。あまりにも揺るぎないその眼差しに気圧されるように筆を紙面に落とし、薄墨が紙面に散らばる。
夢現の中で妄言を曰っているのだろうか……いや、それはありえない。この場で嘘をつくことはできないのだから。
アーミラは続ける。
「私には親の記憶がありません。父の顔も、母の顔も覚えていません。ですが、それでも私は愛されていました。お師様だけでなく、ナルトリポカでも私を温かく招き入れてくれた人がいます。大切な巡り合わせの中で温かな心に触れた。だからこそ別れの度に死にたいくらいに辛い……。
私は、もう逃げたくないんです。誰かを守れるのならそのために力を使いたいし、記憶を取り戻せるなら努力を惜しみません。
私は、……大切なものを守るために戦います」
目の前の娘は視線を反らすことなく胸を張り、明晰とした瞳でこちらを見返していた。呪術の催眠下にあってもその瞳は決意の灯を宿していた。カムロはその視線に射抜かれてアーミラから目を離すことができなかったが、暫くしてアーミラは香木の煙に微睡み事切れたように倒れてしまった。三度小上がりに倒れる娘を見下ろしながらも、カムロはその身が震えるのを自覚した。これが――
「これが、継承者の器……」
いわば彼女は原石だ。今はまだ石英の内側に眠る碧玉……過酷な世界に打ちのめされ、時に砕け、時に精神をすり減らしたことだろう。しかし砕ければ内にある碧玉は露出し、すり減らすほどに磨きがかかる。己の世界と向き合う彼女の有り様は懶惰に膿んだものではない。いたずらに砕けて失われるような脆さではなく、立ち向かう強さがある。素質については大いに期待ができるだろう。カムロは筆をとり、紙面の向こうに待つ二人に報告を記した。間もなく応答が紙面に浮かび上がり、部下達は既に身辺調査を終えていた事を知る。確かに時間を要したなとカムロは安堵に胸を撫で下ろし、自身の報告を持って当代三人の継承者出征は決定した。
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昼餉の休憩をとって継承者三名は一度大部屋へ向かった。オロルが想定していた通りアーミラの身辺調査に午前の時間を割いたため、午後の儀式のために正装へ着替える時間はずれ込んだ。そのため三人は落ち着く暇もなく飯を腹に収めることとなった。……反ってよかったのかもしれない。式典を控えての緊張に、きっと食事は喉を通らなかっただろうから。
本殿の中庭では白衣を纏った神人種が整然と並んで隊列を作っていた。玉砂利の上に蓙を敷き、ここマハルドヮグに住む者が一堂に会し、数百、ともすれば千人に届く人の集まりとなる。壇上の袖からオロルは聴衆の列をうんざりしたように眺めていた。