決して……見せては……
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小上がりの座布団から足を崩し、崩れ落ちるように次女継承者は眠りに倒れた。
カムロはその姿を見届けると紙面に筆を走らせる。
この筆記……アーミラは会話を記録しているのだと考えていたが、事実は違った。
――次女継承者、今眠りました。
カムロが筆を走らせて書いた文字はこの通りで、何者かに宛てた報告である。紙面を濡らすのは水のような薄墨で、乾けばたちまちに文字が見えなくなる。これまで走らせた運筆の軌跡は何一つ残らず、文机にあるのは白紙であった。
書いては消えるその紙面をカムロはじっと見つめる。すると、ひとりでに言葉が浮かび上がってきた。
――こちらも、長女継承者眠りました。
――同じく三女継承者、眠りました。
紙面に現れた部下からの報告を見届けると、カムロは筆先で二回、紙面を叩く。それを持って了解の返答をしていたのだ。つまり、この紙と筆は魔導具であり、遠くにいる者同士で筆談を可能とする。
しかし、継承者を眠らせたのはこの紙でも筆でもない。別の術だった。
アーミラが見破ることのできなかった呪術。
一切気取られることなく術中に嵌めた手品の種、初めの一手は前日に遡る。
神殿から往復の旅となるガントールによってアーミラが誘われた湯浴場、湯船に満たされた湯に溶かされた術の中に、カムロの呪いが紛れていた。
樋を引いた源泉には常時より治癒の術式が混ぜられていたためガントールも違和感に気付かない。慰労のために湯に浸かる習慣のついたガントールが継承者を誘うことは予想できた……つまりは相手の行動を予測してカムロ自身は行動を起こさずに罠に誘き寄せていたのだ。
とはいえ身を浸すだけではこの呪術は発動に至らず、術者の魔力が相手の体内に吸収されるだけである。
次の一手は夕餐。酒を注ぐ杯に唇を湿すことで二つ目の呪術を重ねることになる。
これには微弱な効果が発動するが、酒の酩酊による睡魔としか感じないだろう。最も、大量に摂取したオロルは強い睡魔をその時点で自覚したが、旅疲れと酔いが重なったのだと結論づけたようだ。
この二つの呪術はいずれも下地に過ぎない。最後の一手はこの部屋を充たす香木の煙りである。非常に弱い呪術を三つ重ねることで呪術式が完成し、強力な効果を発揮する。
一つ一つはいずれも身体を癒やし、休ませるための効果しかないのだ。
呪術そのものに悪意がないため、オロルやガントールの警戒心を掻い潜り眠りたらしめる。その先に待つ強力な催眠状態こそがこの呪術の本当の効果だと知らずに。
さて、この部屋には深い眠りに落ちた継承者と、呪術を悟られることなく行使した術者の二人きり。
身元を質すという本懐を果たす準備は万事整ったのである。
「アーミラ様、アーミラ様。貴女はこれから、私の声に従って緩やかに覚醒に至ります。次に目を開くとき、意識は睡醒にあり、この場においてあらゆる言葉に嘘偽りは通用しません。私の言葉には真の言葉を返す……よろしいですね?」
アーミラは眠ったまま、かすかに首肯を返した。
「それでは、おはようございます。目を開けてください」
「……はい」
小上がりに放った体が身動ぎをして、固く閉ざされていた瞼は錠を外したように軽く開かれる。あれほど煙に滲みていた目はとろりと潤い、碧眼の双眸は何も知らない無垢の視線でカムロを見つめて首を傾げる。倒れる前に見せた訝しげな態度とはまるで別人である。様子はまるで白痴のそれで、定まらない視点を虚空に据え、起き上がった際に隅にずれてしまった座布団を気にもせずその場でへたりと正座の足を左右に崩して座り込んだ。
「座布団の上にお座りください」
カムロの指示にアーミラは従い、敷物からのっそりと立ち上がると座布団を整え、膝を合わせて正座した。上体は不安定に揺れているが、カムロは「揺れるな」とまで指示しなかった。
「では改めて、お名前を教えていただけますか。継承者としての姓もお願いします」
「はい……私の名前は、アーミラ……アーミラ・ラルトカンテ・アウロラ……」
「間違いはありませんね?」
「多分……違いましたか?」
自信無さ気な言葉にカムロは首を振って答える。
「次女継承者の姓は『ラルトカンテ』に間違いはありませんよ。私が問いたいのは『アウロラ』という二つ名の方です。貴女に魔呪術を授け、貴方が名を襲った方についてお答えください」
「お師様……の、名前はマナ、です」
「歳はいくつほどでしょうか」
「教えられていませんが、お年を召された方でした」
「人種と性別は」
「魔人種の女性です」
「いつから行動を共に? 家に招かれて育ててくれたのですか」
「お師様は流浪の民なので、家はありません。思い出せる限りは、ずっと行動を共にしました。なので、少なくとも私が十歳の頃から……きっと記憶を失くす前も、お師様と一緒にいたんだと思います」
「それは、なにか確証があるのですか?」
「いえ……当たり前のように傍にいてくれたので……」アーミラは続ける。「時折私を見る目が、とても優しかったのを覚えています」
「気まぐれに拾った娘に対する眼差しではないと……。師は貴女に、記憶を失くす以前の事を語ったことは?」
「ありません」
ふむ。カムロは質問を止めて沈思する。とりあえずこれまでの情報を整理しようと考えたのだ。
次女継承者の師匠。血の繋がりもない娘を拾い、その素質を引き出すほどに魔呪術の知識を教えたというのだから、それは並の執念ではない。
老媼の魔人種で、流浪の民であるが故に一所に住処を持たず、恐らくは書物を一つ手に入れるのも困難だっただろう。領主の家系と比べて教育環境は雲泥の差、昨日手に入れた紙も明日には口を糊するための食糧と交換する羽目になる……そう思えば無理がある。
「なぜ貴女の師匠は、わざわざ貴女に魔呪術を教えてくれたのでしょう。目的については語っていましたか?」
「分かりません……」
アーミラは申し訳なさそうに肩を落とす。やはり謎が多い。流浪の民という貧しい生活をするくらいなら、魔呪術の力を切り売りすれば働き口はあるだろうに。彼女の師匠がそれを隠してまで貧しく生きてきた理由がわからない。
「マナ・アウロラ……ふむ……」
カムロは呟く。なんの気無しに転がした彼女の師匠の名前。しかし他者からその名前を聞いた事で記憶が呼び起こされたのか、古傷が痛むかのような表情でアーミラの瞳が強張った。
「決して……見せては……」
アーミラが切なく言葉を漏らす。カムロは片眉を吊り上げて「何か言いましたか?」と問う。
催眠状態にあるアーミラは何を見るでもない視線でカムロの方を見つめる。不意に掴んだ手掛かりにカムロは詰め寄った。
「アーミラ様。この場では嘘偽りは通用しません。私の問いかけに応えてください。
もう一度問います。なんと言ったのか、先ほどの言葉を繰り返しなさい」
アーミラは虚空に手を伸ばして同じ言葉を繰り返した。
「魔術の、その全て。決して人には見せてはならん――」
自然と溢れ出す涙が頬を伝い、一筋の雫が敷物にぽたりと落ちた。カムロはその切実な声音にマナと呼ばれる者の影を見紛い、目の前の継承者がどのように師と別れたのかを悟った。辞世に遺した約束事か。
「それが、最期の言葉でしょうか?」
「……はい」
「アーミラ様、貴女は過去の記憶を持たず、肉親の顔も名前も知らないとオロル様が仰っていましたね。確認ですが、師とは血縁関係ではないのですよね?」
カムロの淡々とした言葉にアーミラは虚空へ手を伸ばすことをやめて、糸が切れたように腕が敷物を擦る。ゆっくりと姿勢を直して項垂れたままアーミラは答える。乱れた髪の房が顔に垂れて表情は見えない。
「私にとっては家族でした。お師様にとってもそう……だと思いたいです。血が繋がっていなくても、お師様は私の全て、お師様がそこで死ぬのなら、私もそこで死んでいいと思っていました」
そこから、アーミラはこれまでの足跡を隠すことなく語った。順序よくとは行かなかったが、話の内容に穴があればカムロは問い質し、次女継承に至るまでの半生をほとんど把握するに至る。