お楽しみ頂けましたか?
「確かに手を焼きそうだ」ガントールはカムロに笑いかける。「記憶もそうだが、アーミラは厭人の魔女だからな。まずはその眉間の皺を解さないことには会話もできないぞ」
「余計なお世話ですよガントール様」
ガントールとカムロは共に神殿で過ごす旧知の仲だ。
年の差からみれば、カムロは姉のようにガントールの成長を見届けてきたことだろう。二人は軽口を交わすことが許される交誼の仲で、臆面もなく顔をしかめてみせたカムロの口の端には笑みが漏れていた。そして、咳払いをして面持を元の生真面目な表情に戻す。
「後が詰まっていますから、始めましょう」
アーミラは本殿の回廊を促されるままに進み、ガントールの背中を追う。後ろにはオロルが続いた。
先導するカムロは至聖所に辿り着く回廊の中程で歩みを止めて、徐に壁面を押す。一見してなんの変哲もない壁であるが、カムロの手によって奥にある空間が姿を表した。隠し扉の向こう、さらに下へと続く道が現れた。
カムロが指を鳴らすと地下への階段に取り付けられた灯石が次々と燈される。手前の石から奥へ向かって順に道が照らされると、随分深いところまで伸びているのがわかった。地下の生温く滞留した空気が鼻を撫で、僅かに焚かれた香木が薫る。一列になって、四人は石畳の階段を降りていった。
地下はひどく静かだった。だが、人の気配がまるでないわけではない。締め切った扉の前を通り過ぎる度、向こう側の空間に鎮座する何者かの気配を感じる。口数も少なく四人は通路を進む。
厳かとも言えるこの場は本殿と同じ建築様式を汲んでいるようで、弧を描く廻廊は先が見えずどこまでもぼんやりと明るい。
カムロは一つの扉の前で立ち止まり、振り返ってオロル見た。
「ここからは別室にて待機して頂きます。オロル様はこの扉の中へお入りください」
「わしか」
オロルは不意を突かれ、表情を硬くした。これまでの流れでは先陣を切るのは長女継承者からだった。万事そのように運ぶと高を括っていたが、ここに来て三女から呼ばれるとは。
カムロは慣れた態度で扉を開けて框を跨ぎ、半身を部屋の中へ差し入れる。招かれるままオロルが部屋の中へ踏み入った。アーミラは前を横切る小さな背中越しに、部屋の中を窺った。
カムロが早々に扉を閉めてしまったため、まじまじと観察することは叶わなかったが、部屋は質素な造りのようだ。印象としては飾り気のない石壁と木材の柱、その隙間を埋めるように土が押し固められていた。オロルが今どうしているのか、扉の向こうからは何も聞こえない。
再びカムロが地下廻廊を進み、次はアーミラを部屋の中へと促した。
一人に一部屋が充てられ、個別に試験が行われるようだとアーミラは推測する。そしてその推理は正しく、三女、次女と続いてガントールも同じように部屋へ案内されたのだった。
❖
一人になったアーミラは、何もない部屋に取り残されていた。
孤独が恐ろしいということはないが、見知らぬ場所で一人きりというのは居心地が悪いものだ。室内はオロルの時に盗み見た部屋と同じ、質素な空間である。
今ごろ他の二人も部屋の中で待たされているのだろうか……。アーミラは辺りを見回した。
窓は無く、背後には扉――先程入ってきた扉だ――。左右と前方には石積みの壁があり、やや手狭な印象を受ける。唯一異様なのは部屋の中央に小上がりが設えられており、座布団が一つと、隅の方に文机が鎮座していることだ。カムロは試験と言っていたが、この部屋の様相は向かい合って話し合うような、面接を行う場のように見える。
と、ここで扉を叩く音が聞こえてアーミラは振り向いた。扉越しに「失礼します」と短く告げる声の後にカムロが入ってきた。
「ど、どうしました……?」どきりとして、アーミラは問う。心の中に湧き出た不安の泉が背筋を冷やし、声が上擦った。
「はい……? どうもしませんよ。記憶がないということで、急遽アーミラ様の試験担当を務めさせていただきます。
早速ですが靴を脱いでそこに上がって頂いてもよろしいですか」
カムロが小上がりを手で示すと、白衣の襟元を空いた片方の手でぐいぐいと引っ張り緩めた。どことなく忙しそうな反面、その所作に堅苦しさは鳴りを潜めて砕けた印象を受ける。
アーミラは言われたとおりに靴を脱ぎ小上がりに上がると、カムロは文机の方に正座をして、座布団をアーミラに勧めた。
互いが小上がりに座して対面する形となると、カムロは文机の上に紙を敷き、筆を短く走らせる。衝立に阻まれて何を書いているかは見えない。
墨が紙面を染めていく微かな音が途切れると、いよいよ完全な無音が耳を詰まらせた。カムロは背をそらして凛とした表情でアーミラを見つめ、柔和に笑みをつくってみせた。
「緊張しなくて大丈夫ですよ。では、始めましょう」
「は、はい……」
膝の上で拳を固めて肩を怒らせるアーミラの姿にカムロは眉を下げて苦笑した。手に持った筆の先で紙面を叩いていくつかの質問を飛ばす。
「昨晩の夕餐はお楽しみ頂けましたか?」
「えと、はい……」
「召し上がったお酒の量は如何程でしよう」
「……? ……そ、うですね、三杯くらいだと思います」
なぜそんなことを聞くんだろう。
アーミラは不審に思いながらも答える。
昨日の出来事など隠す必要もないことだが、世間話にしては、妙に個人の趣向を探るような質問だった。
その後の質問も似たようなものが続いた。料理の中で気に入ったものは何か。量は多いか少ないか。味は濃いか薄いか。……まるで調理者を相手にしているようだった。私の過去を遡るのではなかったのか。香木の煙る静謐な室内で交わされる単調な会話は正直に言えば退屈で、ここに来て睡魔が重い鎌首を擡げ始める。
「湯浴場へは行きましたか?」
「はい……ガントールさんに連れられて、行きました。その後オロルさんが入ってきましたよ。三人が揃ったのはそこが始めてでした」
カムロは答弁を紙に書き残しているのだろうか。表情が何故か和らいだように見えてアーミラは不思議に思う。これまでの会話の中で何か満足できる答えを得たのだろうか……。
筆先が紙面を叩く音が密室にこだまする。地下だからだろうか、小さな音でもとてもよく耳に届くのだ。
墨が掠れる音。筆を払う音。墨の瓶に筆を浸ける液面の揺らぎの音。
アーミラはいまや抗い難い眠気と戦っていた。筆が止まるたび、静寂が思考を奪うようで、アーミラはつい饒舌になった。熱に浮かされているような心地だっだ。
瞼が重いうえに目が滲みる。香木を焚く煙りのせいだ。
瞼を閉じていないと瞳が痒くてたまらない。瞬きをするたびに涙が出た。
一度目を閉じてしまうと糊を付けたように開くのが困難になり、首が船を漕ぐ。焦点は定まらず体に力が入らない。
眠い……とても眠い。……けれど、これほどまでとは何かおかしい……。
アーミラは自身の意識の内にある残り少ない理性を働かせて考える。何か、呪術を受けたのだ、きっと。……しかしこの部屋に着くまでに魔力を感じた場面はない。陣も回路も見ていない。一体いつ、誰の手によって私は眠らされるのか――