君に触れなければならないが
三日間に渡る式典の初日。
継承者三柱の人生を決める分水嶺。
内地での生命が保全された生活は終わりを告げ彼女達はこれより先、神殿の所有する兵戈あるいは戦略の駒として前線へ出征せねばならない。
これは決して岐路ではない。刻印を宿す三人の娘達に道を選ぶ自由はなく、運命はただの一本道……使命と呼ぶほうがふさわしい。
ある者は産まれ落ちたその日から戦人として。
ある者は流浪の日々に轟く霹靂の報せに戸惑い。
ある者は扼腕の果てに待ち侘びた痛みを喜んだ。
交わることのなかった当代継承者の運命がこの日一つに収斂し、来る黄昏に向かい絡まり合う。
――それを理解しているからこそアーミラは昨晩、深く眠ることができなかった。
大部屋での晩餐から酒食を楽しみはしたものの、舐める酒に舌が慣れず、酔うほどまで深酒はしなかった。贅を極める食事でも結局馴染みあるナルトリポカの味に落ち着いた。
隣で会話に花を咲かせるオロルとガントールを横に聞き流し、晩餐が終わると寝所に横臥して輾転反側……身は落ち着かず気付けば昨日と今日の境を跨いだ。目を閉じている間の多少の記憶の欠落こそあるが前後不覚な程の眠りには落ちず、アーミラはぼんやり窓外が青く白んでゆくのを眺めながらしばらくじっとしていた。やがて、夜明けとともに去ってゆく眠気を追いかけることを諦めてもぞもぞと身を起こした。せめてこの日の始まりを清廉なものとするため、水場で顔を洗おうと考えたのだ。
昨日の雨が初夏の夜に煙り、尾根筋に沿って流れる風が神殿に朝霧を運んだ。湿度が高いせいで部屋が蒸してしょうがない。どおりで汗ばむわけだとアーミラは窓を少し開けて、乳白色に微睡む早朝の神殿を眺めてから立ち上がり、部屋を出る。
標高が高い土地であるが故に空気は薄く、風はまだ肌寒い。さて水場はどこであったか、確か昨晩井戸を見かけたような気がするが……と、アーミラは朝霧の中を彷徨い歩く。
すると、晩餐を過ごした大部屋へ続く道でこちらに向かって歩いてくる人影が見えた。こんな早くから神人種はもう仕事に出るのかと驚き、やり過ごすためにアーミラは脇道に身を隠して様子を窺う。話しかけられては面倒だ。
こんな時間からいったいなんの仕事があるのかと人影を目で追いかける……その人影の正体が分かると眉を開いた。鎧とザルマカシムである。
一方でウツロもまたアーミラの存在に気付いたか、こちらに顔を向けるとザルマカシムに手を振り、一人で近付いてくる。
「お、おはようございます……」と、アーミラ。
最後に別れたのは神殿の門の手前、一日ぶりの再開である。
ウツロはアーミラの挨拶にただ、ひとつ頷くだけだった。地面は玉砂利か石畳で舗装されている上、どのみち得物が無いので筆談ができない。それを理解したアーミラはどうしたものかと困惑する。
こちらから一方的に話し続ける質ではない。しかし話したい。そんな葛藤に悩んでいると、ウツロはアーミラの腕に触れた。
――どうした?
鎧はアーミラの腕に指で文字を書いた。
「え、あわわ……」
アーミラは驚いてつい身を引いてしまう。
遅れて理解する。
「……その言葉……」
寝間着の袖から晒している腕に指を滑らせ、『如何シタ?』ではなく、『どうした?』と書いたことを見逃さなかった。
肌に触れた鎧の指先の硬質さ、冷たさ、何より言葉に驚いて、アーミラは腕を温めるように摩りながら続ける。
「……魔種書体も、心得ているんですね」
魔種書体とは、主に魔人種が用いる書体である。これまでウツロが用いていたのは賢種書体と獣種書体を合わせた堅苦しいものだったため、てっきり魔種書体の心得はないのだと思っていたのだ。なにより鎧の風貌からして、なめらかな運筆は想像できなかった。
ウツロはしばらく答えられずにいた。アーミラはあっと思い出したかのように腕を付き出す。書く場所がなければ答えようもないのだ。
――槍で土に書くには直線がいい。
その言葉にアーミラは一理あると頷いた。確かにウツロが用いる筆は硬い槍の鋒、線を引くのは荒い土の上。滑らかに筆を運ぶには曲線ではなく直線を用いるのが道理だ。
「……では、こうして普通にお話しできるんですね」
――君に触れなければならないが。
「私を背負って山一つ登ったじゃないですか。いまさら気にしませんよそんなこと」
アーミラは言い、自然な笑みを浮かべた。どうしてだろう。人ではないこの魔導具と心通わせられるのは。どうしてだろう。この鎧と語り合う一時に心が安らぐのは。
――こんな早くから何故起きている?
「眠れないだけですよ。横になっているのも疲れてきたので、顔を洗おうかと思いまして」
――水桶を持っていくから、部屋で待っていろ。
そう言って歩き出すウツロの背をアーミラは追いかける。
「あ、わ、私も付いていきますよ。少し話したいんです」
アーミラの言葉にウツロは振り返り、二人で水場へと歩き出す。
アーミラは道中、昨晩の料理のことや他の継承者のこと、アダンとシーナについてを語り、ウツロはその言葉一つ一つを受け止めながら頷き返すのだった。
❖
一日目。
初夏の朝日がすっかり夜露を晴らした午前の神殿では、すでに人々が活動を始めている。いそいそと駆け回る神人種はこの日、下ろし立ての白衣に身を包み俄に色めき立っていた。心は午後の式典を今かいまかと待ち侘びて、行き交う者達の面持は期待と興奮に満ちている。
そんな中、継承者は略装で本殿に集められていた。
マハルドヮグ神殿の中央に座する本殿は弧を描く大きな円形の建造物である。列柱の並ぶ郭はくり抜かれた回廊となっており、その先には至聖所が待ち構える。また、円の内側は中庭があり、そちらもまた引き戸を開け放って至聖所に繋がる。吹き抜けとなった会場には朱染めの天幕が厳かに飾られ、式の準備は着々と整えられていた。
至聖所の向こう側、中庭から覗く空を見上げれば、突き抜けるような青空に三女神の巨像が屹立している。
アーミラはその姿を見上げて呆けていた。オロルが右腿を小突く。
「アーミラ様? 如何なさいましたか」呼び掛ける声の主はカムロであった。
「あ……い、いえ」
我に返り、巨像から視線を外してオロルを見ると流し目に片眉を吊り上げて視線が合う。そして言葉もなくカムロの方へ向き直った。アーミラはその一瞬の眼差しがなにやら意味ありげに思えたのだが、気にする間もなくカムロが説明を始めた。
「では、続けさせていただきます。
本日午後より開かれます儀式の前に、これから皆様の身辺調査にご協力頂きます。心像灯火の儀を開く前の、ある種の試験のようなものとお考えください」
旭日に眩しい白衣の女は、言葉使いこそ柔らかであるが、語調は揺るぎのない一陣の風のように耳朶を打つ。儀式を執り行うより先に済ませておくべきこととは――
「しけん」アーミラは呟く。聞き慣れない単語だった。カムロはそんな口調を読み取って言葉の意味を説明した。
「あなた方を試すということです。本当に戦えるのか……力を疑うというよりは、素質を詳らかに明らめるという意味ですが」
「であれば厄介じゃな」言葉の後ろからオロルが続いた。「アーミラには手を焼くぞ。記憶がない」
その言葉にカムロは驚き、改めてアーミラの方へ顔を向けた。
「記憶がないとは……こちらとしては継承者様方の身元を質して記録しておきたいのですが、血縁は追えないのですか?」
「あ、う、……」アーミラは狼狽えながら繰り返し頷く。親の顔も名前も知らないのだから頼まれたって無理なのだ。