貴様……それ、なんの薬だ?
「ああ、そうでした。そうでしたね」
そう言ってくつくつと笑う。ニァルミドゥは呆れたように眉を寄せて「しっかりしてよ」と言いかけて呑み込んだ。ハラヴァンが突然添えていた掌を顎先から右腕に滑らせ、少女の前腕を掴んだのだ。
少女は虚を突かれて目を見開き唇を引き結ぶが、抵抗しない。
「明かりを」
ハラヴァンの言葉に少し遅れてブーツクトゥスが従う。
差し出した燭台の灯りに少女の青白い肌が闇の中で浮き上がり、ハラヴァンは掴んだ手の親指で数カ所を指圧した。明度の乏しいこの空間で指先の感触を頼りに骨と腱を避けて血管の透ける柔肌に針を突き立てる。
ぷつりと針が皮膚に沈み込む瞬間、ブーツクトゥスは思わず目を背けた。可憐な少女の細い腕には到底ふさわしくない得体の知れぬものが流れ込む。一度は毒ではないかと疑ったそれが押し子によって容赦なく注ぎ込まれていく。その光景に、彼は背筋が寒くなった。
一方で少女は痛みと不快感に顔を顰めて腕を見つめた。気丈に振る舞うものの、額からは脂汗が滲む。針の沈み込んだ皮膚の隙間から血が滴る。歪な針だ、この時勢に上等な医療器具の調達は望めない。注射をされた先から血管が膨らみ、熱を持つような、それでいて薄荷のような冷えた感覚に麻痺する。皮膚の下を何かが這うように青黒い筋が浮き出す。それはやがて、木の根が地を侵食するかのごとく広がり、腕全体に絡みついた。
痛みがないことが少女にとっては不快だった。肉と皮膚の間をぐねぐねと、蚯蚓が這うような感覚に歯を食いしばり少女は悲鳴を押し殺す。ハラヴァンはあやす様に少女の頭を撫でる。
「すぐに収まりますからねぇ……」
繰り返し髪の上を滑るハラヴァンの手。少女は悲鳴とも嗚咽ともつかない声を漏らして、痙攣する腕を見つめる。指先が狂ったように踊りだしたかと思えば緊張を高めて限界まで開き、次には爪が食い込むほどに握りこむ。少女の意思ではないことは明白だ。少女は無事な方の右腕で暴れる左腕を掴むとさらに両脚の内腿に挟み込んで抑えた。自制の利かない腕はしばらく暴れまわったが、峠を越えると少しずつ収まるのがブーツクトゥスからもわかった。
「貴様……それ、なんの薬だ?」ブーツクトゥスはたまらず問いかける。
「貴方に話す必要が?」
剣呑で冷ややかな視線が射抜く。
「いや、いい。……ただこれだけは答えてくれ。この先に必要なことなんだな?」
「私は言いましたよ。『この娘は聖杯です』とね。私達の願いを叶える神器。その杯を、絶望で満たしましょう」
ハラヴァンの言葉にブーツクトゥスは正気を疑う。……いや、疑うまでもなく正気ではないのだ、この男は。志を共にする以外に理解できることはなく、目的を成すための一つとしてこの少女は贄となるのか……。
ブーツクトゥスは憐れみを持って少女を見やると、腕の痙攣は治まりはじめたようだ。震える膝で辛うじて立ち、顎先から汗が一筋流れ落ちる。どこか諦観の陰を落とす伏せた睫毛がほんの少し歪んだように見えた。それが微笑であるとは考えたくなかった。
「とにかく、こちらのことは任せて下さい。貴方は貴方のやるべきことを全うする……いいですね」ハラヴァンは言う。
「ああ、わかっている」
「殺するは蚩尤。焦眉の急は継承者の首です。前線より手前、可能な限り未熟なうちに奇襲をかけましょう」
「二人は実戦の経験がないとはいえ、第一継承は例外だろう。戦力はどれほど投入するんだ?」
ブーツクトゥスの問いに、ハラヴァンは意味深長な笑みを作り人差し指を立てる。
「……秘密ですよ」
またか。心の内にブーツクトゥスは吐き捨てて閉口した。用心深いのは結構だが、こちらとて危うい綱渡りを続けているのだから信用されてもいいはずだ。だというのにこの男はこちらの問いかけをのらりくらりと躱すばかりである。
「そんな顔をしないでください。ふむ、そうですねぇ……少しくらいはお伝えしましょうか」
ハラヴァンはそう言って、これからの企てを語った。
「私達はこれから前線へ戻ります。その道すがら刺客を放ちましょう。場所は……平原を狙いましょうか。おそらく継承者共はそこを経由して前線へ向かうでしょうからね」
「なぜそう言い切れる?」
「簡単ですよ。次に戦端が開かれるのがラーンマクだからです。これは陽動でも搦手でもなく道理です。私達はラーンマクを攻め落とす以外に道がない。だからこそ継承者もそこに集まる……それは向こうも知っている……なので少数精鋭の間者を差し向け平原地帯で奇襲を掛けます。うまく行けば前後で挟み撃ちができるかも知れませんしね」
「……たしかに手堅い手段だろうな」
そう言いながらもブーツクトゥスの業腹は収まらない。ハラヴァンは至極当然な駒運びで次の作戦とやらを語ったに過ぎないのだ。実のある情報や秘密の共有とは程遠い、信頼関係の欠落を暗に語っている。
ハラヴァンとの繋がりはやはり望むべくもないと、ブーツクトゥスは諦めた。早々に渡すものを渡してこの場は帰ろうと決め、懐から包みを取り出す。
「それは?」
「呼び出した目的だ。受け取れ」
ハラヴァンは包みを開けて中を覗き込むと僅かに喜色に笑みを作る。それを見届けるとブーツクトゥスは踵を返して洞から出ていった。
後に残されたのはニァルミドゥとハラヴァン。果たして手渡された品は何だろうと、少女は言問顔で見つめる。
「交渉がお上手ですね……」と、ハラヴァンは愉しそうに独り言つ。
❖
朝。薄青い空は初夏の気流に雲が千切れて、その向こうに薄く残月が透けている。
マハルドヮグ山巓に吹き込んだ濃霧が肌を濡らし、汗ばむ寝起きとなった。
ザルマカシムは近衛隊集堂の椅子に身を休めているうちに眠ってしまったようだ。酷く痛む体にうんざりしながら、頭を抱えて顔を手のひらで拭うと目脂をこすり落とし、よろよろと立ち上がる。いかん、今日は式典ではないか。
まだ朝も早いと見たが、ザルマカシムは椅子から起き上がって背を伸ばした。式典は午下からとはいえ、継承者ともども朝から出ずっぱりの予定だ。準備をしなければならない。あくびをかみ殺し眠い身体を引きずって扉を開けると、朝霧の中でウツロが立っていた。
「ウツロ……」
名を呟くが別に用があるわけでもない。待ち構える存在に驚き、認識した際に声になっただけである。
ザルマカシムは明度を増す清廉な空に染まることのない黒い鎧を鬱屈とした幽霊かなにかのように見紛い、恐ろしく思った。ウツロは得物を携えておらず、何も応えない。百年以上を神殿に幽閉されていたのにも関わらず、鎧は無感情なのだ。魔導具なのだから当然と見るか、しかしザルマカシムは知っている。過去の記録によればそれこそ百年前、待てど暮せど継承者が現れなかった約束の年、鎧は制御不能な程に暴れ回ったこと。近衛隊総出で鎧の四肢を分解することで強制的に封印したということを、知っている。
時折鎧の内側に人格を感じる瞬間がある。今もそうだ。魔導具ならば勝手に歩き回ることなどありえはしない。
「なあ……」ザルマカシムは改めて問いかける。「百年前の記録を読んだことがある。……なんで暴れたのかはわからないが、現れなかった次期継承者と関係があるのか? ……あのとき何があったんだ?」
理由はわからずとも、その行動には情動を感じずにはいられない。
「ずっと待っていたんじゃないのか?」
先代との死別から百年、現れなかった待ち人達に憤ったのなら、どうだろうか。
「ウツロ、お前さんには、心があるんじゃないのか――」
鎧は闇を内包する虚ろな双眸でザルマカシムに対している。面鎧は何も語らず、感情の影すら宿さない。ただ朝日に照らされ、鈍い光を湛えていた。
[04 天の暦数 完]
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