聖杯
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石造りの列柱に支えられた大部屋の上。
鈍角の不陸屋根の縁にしゃがみこんで、寝所へ向かう三人の後姿を見つめるものがいた。そのものは全身を黒錆の鎧で覆い、そして肉体を持たない戦闘魔導具の虚である。
朝に次女継承者を伴って神殿へ帰還してから、一度報告のために近衛隊集堂に寄った後、ウツロは次の命令が出るまでの暇を貰った。
先代との離別から数えて二百年ぶりの自由である。
目的も予定もないウツロは継承者が晩餐を楽しんでいた時にも、まるで屋根の雨樋に据えられた彫刻のようにずっと前からそこに居た。警護のためではない。縁に腰を落ち着かせて、夜風にあたっているのだった。
継承者達から少し間を置いて、ザルマカシムが足元から出てきた。彼はウツロの気配に気付くことなく近衛隊集堂の方へと向かっていく。手元に携えた灯石が魔力を焚べられてぼんやりと男の周りを照らしている。ザルマカシムは白い玉砂利を踏まないように敷石の小路に従って足音を潜めて歩いていた。ウツロはその足取りを目で追いかける。夕刻にザルマカシムがここに訪れたときは平然と敷石を斜めに突っ切り玉砂利の上を歩いていたのを見ていたが、帰りの足取りが密やかであることを無感動に見下ろしていた。皆が寝静まった夜半である。足音を潜めているのは彼なりの気遣いだろう。
灯りが遠く消えるまで眺めていると、ザルマカシムが近衛隊集堂の扉を開け、その身を滑り込ませた。扉が閉まると明かりは隠れ闇に溶ける。微かに扉の閉じる音が闇夜に抜けて、あとは静寂が落ちた。
宵の口に山を濡らした雨雲は夏の風に流れ、月明かりが滲んでいる。ぼんやりと仄明るいがウツロの背に影は落ちない。
ウツロは鎧であり、先代によって霊素を定着させられた戦闘魔導具である。肉体はなく、血の通わない機巧だ。視覚と聴覚を備えていることは皆が知るところだが、面鎧に口がないため、会話する術を持たない。そもそも口があったとして、この魔導具が何を語るのかは誰も知らぬところである。しかし、少なからず思考する存在であると認める者はこの魔導具に語りかけ筆記での対話を望む。アーミラがその例である。
『先代はどのような方でしたか?』
ウツロは屋根の砂埃に指先で言葉を書くと動きを止めた。朝にアーミラから投げかけられた言葉。それを見つめ下ろす面鎧に夜闇が吹き溜まり翳りをつくる。ウツロは肉体がない故に疲労という概念がなく、睡眠を必要としない。もちろん体を休める必要がないとなれば、この魔導具に部屋は与えられていない。
屋根の上で独り黄昏れているのは、己の居場所がないからだ。彷徨くこともできず、ただ朝日を待つのだろう。手持ち無沙汰の一夜、物言わぬ鎧は沈思に耽るようにアーミラの投げかけた言葉を見つめていた。
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月明かりの届かない洞の奥、狭苦しい土壁の暗中を進むと湿った壁面は次第に渇き冷えた石積に変わる。規則正しい横長の石材と隙間を埋める泥の溝を右手の指先で辿り、左手に持つ燭台のか細い蝋燭の灯りは左右の壁面を辛うじて照らすのみ、一寸先は闇である。
そうして歩いていると、指先が空を切り、不意に左右の壁が消失した。燭台を持つ男は無言の内に驚くが、すぐに理解する。広い空間にたどり着いたのだ。扉で隔てられていないため気付かなかったが、男はいつの間にか部屋の仕切りを跨いでいた。
「勤勉ですねぇ」
なよなよとした声音が室内に響き、男は声のした方向へ体を向ける。そこには脚の長い机と、その上に載せられた燭台、その蝋燭の灯りを受け光を遮る長髪の後ろ姿が影を作っていた。
「……それが取り柄だ」男が答える。
「そうですか、そうですね。……では勤勉なるブーツクトゥス、報告を」
長髪の男は視線を返すことなく、机の上に並ぶ奇妙な薬品を指先で手繰り、匙で粉末を掬うと小皿に落として薬液と磨りながら混ぜ合わせる。その態度は、報告を求めたわりに興味はまるでないようである。
名を呼ばれた男――ブーツクトゥスはやや不機嫌に片眉を吊り上げるが、命じられるまま報告を始める。その際に意趣返しのように名を呼び返した。
「それでは報告だ。先日の継承者刻印の現出は真であった。第二継承はナルトリポカ、第三継承はムーンケイ島嶼部より確認。暗殺に向かった二人は内地に侵入、以降連絡は取れなくなった……やられたと思うか? ハラヴァン」
「そうでしょうね」長髪の男、ハラヴァンは短く相槌を打つ。「片方は私が看取りましたよ」
手は薬剤を注いだ小瓶を摘んで軽く揺すり、混ぜ合わせながらちらりとブーツクトゥスを見やる。赤みがちな目尻の切れ長な瞳が蛇のように睨めつける。ハラヴァンは言葉を続ける。
「先に力をつけてしまった第一継承だけでも随分と前線を荒らしてくれます。可及的速やかに第二第三の命を摘まなければならないというのに……厄介です、厄介ですね。厄介極まりない。……今からでも刺客を送ることはできませんかね」
「それは……厳しいな」ブーツクトゥスは語調を弱らせる。「暗殺に失敗した二人は、第一継承にやられたわけではない。先代の虚が封印を解かれているんだ」
その言葉にハラヴァンは初めてブーツクトゥスに顔を向けた。
「虚……とは何者でしょう?」
「鎧だよ。先代の継承者が作り出した魔導具だ。少なくとも百年は地下に封印されていたはずだが、ここにきて外をうろついてる」
「鎧ですか、ああ……、私が看取った方はまさにその鎧に討たれましたね……黒くて無口で肌を見せない……あれがそうですか……なるほど」
そう呟くと言葉は途切れ、ハラヴァンは一度長い髪の縺れを指先で弄くり回して手櫛で梳かした。そして薬液が完全に撹拌されているのを確かめて細い筒に移し替えた。筒は硝子細工で金属製の枠にはめられている。下端には細い針が繋がり、栓をすれば注射筒の用途を果たす。薬液を注ぎ切ると押し子を嵌めて上下を返し、中の空気を抜いた。指先でとんとんと叩いて筒内の気泡を針の先に集めると一仕事終えたようにハラヴァンは眉を開き、顔を向ける。なんの感情もない真顔がブーツクトゥスと対する一瞬、背筋が粟立つ。まさかそれは、俺に打つ気なのか……?
思わずたじろいだブーツクトゥス。引き下がる背中に何者かの手が添えられた。
「私が行こうか? 倒してあげるよ」
後退る背を支えて闇より現れたのは少女だった。陰惨な空気を纏い、陰気な影を落とす肩にかかるほどの黒髪と、太陽とは無縁の青白い肌。細い肩紐に吊り下げた衣は服と呼ぶには簡素な作りで、前後の布地が垂れ下がることで暗幕のように躰を隠している。脇、横腹、腰のところに紐があり、翻らないように結ばれているが心許ない。頭角はなく、背丈も中程。耳は丸いとなるとその者は獣人、魔人、賢人、そのどれでもない。まして禍人にも当てはまらない女だった。
「この女はなんだ……?」ブーツクトゥスは問う。「混血種か? どこで拾った?」
「聖杯ですよ……私達のね」ハラヴァンは微かに目を細めると少女の方へと視線を向けた「おいで……ニァルミドゥ」
ニァルミドゥ。そう呼ばれた少女は飼い慣らされた猫のように音もなくしなやかにハラヴァンの傍に歩み寄った。ハラヴァンが少女の顎に手を添えるとニァルミドゥは目を伏せた。全幅の信頼とはブーツクトゥスには思えない。従順ではあるが表情は暗く、微笑まないのがわかったからだ。
「君が行く必要はありません。大事な役目があるのですから」
「そう……なら、ここに連れてきた目的は何?」
「なんでしょうねぇ……私もここに呼び出されたものですから」
ハラヴァンの言葉に、少女は冷たい視線をブーツクトゥスへ向けた。
「確かにここに呼び出したのは俺だ」
「ふぅん。だとしても私を連れてきたのは結局アンタじゃない?」少女は再びハラヴァンに問いかける。二人の会話の中に男が介在することを拒むようだった。