23話 女神としての能力を鑑みてのこと
オロルが一つ咳払いをして本筋に戻す。
「――それで、戦況の説明だったか。わしらが現れるところを、つまり空に浮かび上がった刻印を敵は確実に見ており、先手を取りに動き出す。……そこまで予想しているのなら、どう動くかも見当がついておるのか?」
「ええ。睨むべきは間者の存在です。
前線は百年以上膠着状態にあり、輜重の輸送だけでもじりじりと赤字を計上していました。そのため財政負担を軽減する策として、兵ではなく間諜を重用するようになったのです。つまり前線の指揮を辺境伯に任せることで神殿は戦力の漸減を食い止めつつ、敵の動きを把握するために少数の間諜を敵地に送り込んでいます」ザルマカシムは答える。
「つまり敵も同様に間者を放っておるということか」オロルは眉を顰める。「前線では結界が展開されているじゃろう? 少なくとも敵の間諜がこちらに入り込む余地はないはずじゃが……」
「……私もそう信じたいのですが、誰にも悟られず無理を押して潜り込むからこそ間諜なのです」
オロルはザルマカシムの言葉に膝を叩いて嘲笑う。これは確かにザルマカシムの言う通り。疲れと酔いと睡魔に思考が鈍ったか、愚かな質問をしてしまった。
地図に駒を並べているとつい勘違いしてしまうが、戦争は盤上の遊びではない。命さえ捨てる覚悟で挑む者達がせめぎ合い殺し合うのだ。結界があれば間諜は入り込めないなんて甘い考えは寝言に等しい。このわしも所詮は内地の育ち……気を引き締めねば足元を掬われるな……。
「あ……辺境伯って、そういえば」
アーミラは呟き視線を移した。ガントールは勇む戦士の眼差しを返して視線に肯く。
ザルマカシムは構わず説明を続ける。
「内地への侵入を拒む結界や防壁はありますが、それでも単体での侵入は防ぎきれてはいません。息を潜めてこちらを窺っているという可能性は大いにあり得ます。
実際オロル様もアーミラ様も夜半に咎の襲撃があったとウツロから報告がありました。敵は確かに動き出しております」
「ウツロとはなんぞや」とオロル。ガントールが答える。
「アーミラを迎えに行った遣いだよ」
「ほう……倒したか」
オロルは口の端を吊り上げてアーミラを見る。しかし咎を払ったのはウツロであって、当の本人は凶刃が迫っていた実感さえないので何も言えない。ザルマカシムは話を進めた。
「その上で、最初に戦端を開くのはラーンマクでしょう」そういって地図上の駒を動かした。「アルクトィスの貧民窟は過去の戦闘から辺境伯領が陥落し、指揮権が再び神殿に移っています。既に兵站の補給線が確保されており、敵からしてみれば攻めにくくなった上に旨みがない。経済的にも貧しい国ですから」
四代目三女国家アルクトィスは前線の中で運営が傾き、弱体化した国である。建国当時は魔鉱石の採掘が盛んであったが、現在は廃坑となっており、国は財政難に見舞われて貧民窟と化したのだ。一度は陥落の危機にまで瀕したが神殿からの派兵で守りは盤石となっている……いまさら敵がここを攻めても無駄な消耗戦を繰り広げること必至で、そのうえ得るものがないのは確かな事実であった。
ザルマカシムは続ける。
「デレシスも同じです。涙の湖が侵攻を阻む地形であり、左右のラーンマクとアルクトィスから挟まれます。誘い込んでも敵はここを通らないでしょう。
比べてラーンマクは辺境伯が強い指揮権を発揮していますが、それ故に神殿からの補給線が未開拓です。それにリナルディ辺境伯領を落とせば後ろに広がるスペルアベル平原まで一息に侵攻できる……旨みがあるわけです。先手を取るならここを攻めるでしょう」
「正攻法ではあるが……」オロルは添えた親指の腹で頤を撫で擦る。「しかし、攻められることを予想しておきながらラーンマクの後ろ――スペルアベル平原まで手薄にするとは、いささか露骨すぎるな」
オロルはザルマカシムの答えを待たず渋面で言う。
「ここにわしらが向かうんじゃな?」
事情を掬し正鵠を射る彼女の言葉にザルマカシムは反論も訂正もなかった。招いたばかりの娘を今度は前線に送ること……その理不尽を強いる立場にあるザルマカシムには、返す言葉がないのだ。
「ふん……神殿側の戦略は、戦況が激しくなると予測されるラーンマクの前線に継承者を投入し、集中している敵戦力を一気に叩くということか」
オロルは語調を強めて嫌味ったらしく言う。
「こんなものは予測ではない。前線に態と穴を開けて、敵に自分の領土を攻めさせてから総力戦で押し落とす……なんじゃい、盤上の駒のように人を消費するではないか」
机上の遊びではないのだと己を叱責したばかりだというのに、神殿側の戦略もまた命数を雑に支払おうとしていることを知り、オロルはくだまいた。
「いえ……お怒りは御尤もに御座いますが、この作戦はひとえに皆様の女神としての能力を鑑みてのことに御座います――」
「女神継承者となったわしらの命も相当に軽いもんじゃな。のうガントールよ」
同意を求められたガントールはザルマカシムの方にもちらりと視線を移して困り笑いをした。ガントールは短いながらもオロルと共に行動したから解っている。恐らくオロルは本気で怒ってはいない。その上で困惑させて遊んでいるのだろう。実際、オロルの表情にはまだ余裕がある。怒りの演技に跳ね上げた眉にも愉悦の笑みがあった。
「そうはならないよ」ガントールは言う。「私達は明日の儀式を経て非死者になる。そして前線に穴が開く前に辿り着いてみせる。誰も殺させない」
遠巻きに会話を聴いていたアーミラは不可解な言葉に引っかかりガントールの方を見た。非死者になる……?
「頼りにしておるぞ。ガントールよ。
しかし……間諜とは……禍人は厄介じゃな」
「人に化けているだけですよ。奴らは皆皮を剥がせば化け物でしかありません」
と、ザルマカシムの言葉にガントールが続いた。
「ザルマカシムの言うとおり、奴らは化け物に過ぎない。実際、前線では禍人との戦闘も珍しくはないが、人の姿を模しているのは私達への精神的な嫌がらせだろうね。同じ姿形の存在を殺すというのはやはり心苦しく感じるものだから。
でも、防護結界に侵入した禍人は、擬態が維持できなくなる……それを咎と読んでいるに過ぎないんだ」
「それなら、禍人とトガは同じ存在ということですか?」アーミラは問う。
「その認識で間違いない。前線で人に擬態した姿が『禍人』で、内地に踏み入り擬態を解いた姿が『トガ』。
アーミラは見たんだろう? 人に化けることをやめた奴らの本性は悍ましいものだろう」
アーミラは曖昧に吐息を漏らして視線を逸らすとばつが悪い顔をした。オロルもガントールも勘違いをしている。咎を討ったのはウツロ一人で、わたしは身の危険を察知することなく暢気に眠りこけていたのだ。
そんなアーミラの心中に気付いたか、オロルは冷やかに見つめながら、何度目かのあくびを噛み殺した。
「とにかく、出征の後にわしらはラーンマクへ向かって南下するのじゃな。辿り着き次第、敵を残らず倒す。
そして道中で経由することになるムーンケイ、スペルアベルではそれぞれトガの襲来に十分警戒すると」
「ええ、仰る通りでございます」
「何か他に伝えておくべきことがなければ、明日に備えて休みたい」オロルはそう言うと再びこみ上げるあくびを奥歯で噛み殺して目に涙が滲んだ。眠気の限界が来たようだ。隣に座るアーミラにも移ったか、手で口元を隠して集中力が切れているのがわかる。
ザルマカシムは三人の娘の気儘な態度を前に肩の力を抜いた。目の前に対している三人の地位は女神継承者。数日前までただの生娘だったとしても、今や天帝に準ずる存在である。故に眉を困らせつつも諾々と従った。
「それでは、今宵の晩餐はお開きとさせて頂きます。皆様は寝所の方で明日に備えていただきますようよろしくお願い申し上げます」
ザルマカシムは一礼すると、継承者三名が大部屋を去る背中を見届け、簡単な片付けをすると自身もまた部屋をあとにした。




