20話 神殿は酒一つとっても贅沢な味がする
そういえば、とアーミラは思い出す。
先程の会話、ザルマカシムの勇名の由来であるスペル……これは魔呪術の基礎知識であるが、言葉と術……未熟な頃は二つの違いが分からなくてお師様によく叱られたものだった。教えを説くときのお師様も、ここまで上等とはいかずとも、椅子に腰掛けていたものだ。
――『魔術』と『呪術』の違い、そして『言葉』と『術』の違いについてをここで説明しておこう。そのためにはまず『魔呪術』と括られる体系について触れておく必要がある。どれもこの世界に根ざした重要な文化であり、この先無視することはできないだろう。
まずは魔呪術について、これは魔人種の扱う魔術と、賢人種の扱う呪術を包括して表す言葉である。どちらも原理は同じだが、魔術と呪術はそれぞれの人種が長い歴史の中で別々の方向に発展、体系化されている。主な特徴は以下の通り。
・魔術――物質に対して事象を適用させる能力。魔人種がより顕著に才覚を
発揮する。
人力を用いずに物質を移動させたり、等価の代償を支払うことで
炎や水の生成などが可能である。
・呪術――生物に対して事象を適用させる能力。賢人種がより顕著に才覚を
発揮する。
思考を制御するような催眠や肉体の強化、生命力の吸収、治癒な
どが可能である。
魔人、賢人であれば誰もが魔呪術を扱えると言うわけではなく、あくまでも素質があるというだけに留まる。開花させるには後天的な識字教育から始まり、書物を蒐集する環境や実践の指導者が必要だろう。なので大半は才覚を眠らせたまま農民や労働階級としての人生を送ることとなる。また逆に、獣人種であっても素質を持ち、その上で充分な修学と経験を積むことができるなら、多少なりとも魔呪術を行使することが可能である。ザルマカシムのように高みへ至ることも。
そして、魔呪術の行使手段こそが言葉と術であり、複雑な式であれば両方を複雑に混ぜ合わせる事もある。
・言葉――魔呪術に用いる呪文の一節あるいは単語のこと。
常用語とは異なる言語であり、発話であれば『詠唱』、筆記であ
れば『綴字』と区別される。言葉には、それぞれ実行者の記憶や
意味が結びついているため、声で発しても文字で記しても、基本
的には同じ効果を発揮するのだが、篆刻や筆記での行使は多くの
場合、術との重ねがけで複雑な構造を維持することが可能で、詠
唱は迅速な対応を求める場面に有効だといえる。
・術 ――詠唱方法そのものを指す。
言葉のみでは行使できないような複雑な魔呪術の制御には道具や
技、あるいは魔導回路図や体捌きの一連の動きによって魔呪術を
使用することが多く、平たく言ってしまえば『言葉』以外の手段
はすべて術といえる。
簡潔にまとめるならば、物質には魔術を掛けることができ、生物には呪術をかけることができる。そして行使方法は言葉と術の二通り。といった具合である。ザルマカシムの場合は剣という物質に詠唱を行うことで魔力を付与しているため、魔術と判断でき、行使方法が言葉であるから勇名の由来もわかる。
ぱん――と、不意に大部屋に乾いた音が弾けた。アーミラは思考を止めて音のなる方を見ると、丁度三人と視線がかち合った。咎めるような雰囲気はなく、談笑が一段落ついて手を鳴らしたのだろう。音の正体はザルマカシムのようで、合わされた手指を軽く擦り合わせて仕切り直す。
「お待たせして申し訳ありません。では、卓の手前から長女継承ガントール様、次女継承アーミラ様、三女継承オロル様の順にお座りください」
その言葉にアーミラはようやっと腰を落ち着かせることができると気を抜いて四脚の椅子に腰を落とすと、その柔らかさに転げそうになる。丸く膨らんでいた革の座面と背もたれが予想よりも深く沈み込むため体制を崩しかけたのだ。これまでは手頃な岩や丸太、上等なものだとせいぜい木のしなりで背中を支えるような細工の椅子しか知らないアーミラにとっては沈み込む座面は予想していなかった。まるで尻の下で座面が逃げていくようだった。慌てて肘掛けを掴んで前の方へ重心を戻し、浮き上がった椅子の前脚が床を打つ前につま先で静かに着地する。転びこそしなかったが視線を集めてしまったことに顔が赤くなる。ここに来てから何度目かの失態だった。
ちらりと二人の方を見る。ガントールとオロルの笑みはそれぞれ対象的な意味合いを含んでいることがひと目でわかった。
「いい椅子だよな」ガントールは言う。
アーミラは頷くことしかできない。ガントールの大らかな態度には助けられるが、ときに優劣を際立たせられる気がしてならない。確かにこうして体を落ち着かせると柔らかすぎるということはなく押し返して支えるような革の張りがある。
オロルはというと、脚癖の悪いことに短靴を脱ぎさって座面の上で胡座をかき、卓に片肘を付いて頬を支えていた。とうにアーミラには興味を失って笑みもなく「椅子がなんじゃ、それより飯じゃ」と、顔にありありと描いてある。
ザルマカシムは先程の歓迎をより大時代な表現で繰り返す儀式的な挨拶をそこそこに済ませると一礼し大部屋から下がる。晩餐の目的は三者三様の継承者が親睦を深めることであり、後のことはガントールに委ねられるようだ。ザルマカシムは晩餐のあと再び戻って来るとも言っていた。明日のことについて説明があるという。
退出したザルマカシムと入れ替わるように神人種数人が盆に料理を運んで現れた。列を作り足音もなく楚々として卓に並べられる品々はどれも豪華で色彩に富む。
神人種は運ぶ間も、部屋を出る時も言葉を発さない。微睡むように目を薄く閉じ合わせ、口元は引き結んで固く維持している。恐らくはそれが継承者に対しての礼儀かなにかなのだろうと推理してアーミラは奇妙な光景にしばらくそわそわとしていたが、ガントールやオロルもこのときばかりは口数が少なく緊張しているのが見える。三人を残して人が捌けるのを待った。
「ふう、……それじゃあ祈りから」ガントールは緊張を解いて息をつくと右手側に置かれた杯を手にとって目配せをした。ここからは彼女が仕切りの役となる。
「うむ」と、オロルも続いて杯を持つ。アーミラも二人に続いた。
祈りの言葉はガントールが唱えた。
「天地に遍く恵よ糧よ、其は我身を巡る血肉となりて、豊かな生の礎とならん」
食前に祈る行為はアーミラも馴染みがあるが、ナルトリポカでの祈りはもっと簡易的なものだった。目を閉じて手を合わせる程度、あるいはそれさえないことも珍しくはない。神殿であれば信仰も篤いのだろう。特にこの場は神聖だ。ある種の祈りの原点を垣間見た気がした。
ガントールが真面目に唱えると、三人は杯を向け合い掲げる。
「「「乾杯」」」
杯に満たされた葡萄酒は甘藷黍の糖蜜が溶かされて甘く、山葡萄の滋味深い渋みは柔らいでいた。とりわけ気に入ったのはオロルのようで、小さい舌で唇を舐めると満足そうに鼻を鳴らした。
「ふむ、なかなか。先の湯浴みも凝った造りじゃったが、神殿は酒一つとっても贅沢な味がするのぅ」
杯を揺らして液面を眺める。金色の瞳が薄く微睡み伏し目がちになる。そんなオロルの振る舞いは様になっているとアーミラは思った。糖蜜で甘みがあるとはいえ、後味は重く、じわりと酔いを誘う強い酒だ。胃にくだる冷たい液体は後に熱を残して鼻腔に抜ける。酒を嗜むことのないアーミラは、慣れない贅沢を用心深く口にした。
卓上にところ狭しと並ぶ大皿の数々には、それぞれに彩り豊かな料理が盛られていた。標高の高い土地でありながらこれだけの食材が調えられているのは神殿の威光がなせる力か、酒も食事も奢った一級品が並び、各地方東西山海の別もなく集結している。




