詠唱を用いての戦闘
湯浴み場を出て数刻、霽月の夜に各々が気儘に涼んでいたひととき、晩餐の招待を受けた継承者達は一堂に会していた。
場所は神殿領域内の西方に位置する大部屋で建築様式は他のものよりもぐっと古く、外壁は厚みのある石造りで列柱が等間隔に並び天井を支えていた。壁面は幾度もの時を経て鈍く色付き、その重厚な佇まいに歴史を刻んでいる。正面は一際径の大きい二つの柱が左右に並び、瀟洒な印象を持つ堅木の扉は後年に増設されたものだろうことを木目の艶から窺わせる。
大部屋の扉は開け放たれており、継承者三名の到着を今かいまかと待っていたのだが、横着したガントールが吹き抜けのある肋骨の列柱の間から内部へ踏み入ると、それに続いてオロルも横から忍び込み、悪いとは思いつつ一人だけ律儀に扉をくぐるほどアーミラも生真面目ではなかった。実は扉の傍で出迎えとして到着を待つ神人種の者がいたのだが、柱の隙間から不作法に入ってくる三人を認めて眉を下げながら苦笑して出迎えた。
「お早いお着きで助かります――」
男の言葉にガントールは少しだけいたずらっぽく笑ったのをアーミラは見た。扉から入る手間を横着したことを皮肉に表現した言葉だということを知り、同時にガントールの少女然とした態度を垣間見た気がした。
「――今宵は継承者一同が共にする初めての夜ということで、心計りの品々では御座いますが晩餐をご用意させて頂きました。出征を明後日に控える継承者の皆様には是非、お楽しみいただけたらと思います」
男の血統は獣人種だろう。ガントールに並ぶ長身の偉丈夫で顳顬の辺りから頭角が伸びているため一目でわかる。胸元の釦は、膨れ上がる筋肉に押し上げられ、かすかにきしんでいた。
歳は三十を数えたあたりか、それなりに若々しさもあるが髭を蓄えた顔には威厳を備えている。そんな威圧感のある風貌はきっとアーミラを震え上がらせるに違いないとガントールとオロル内心期待していた。が、二人が予想していたよりも怯えた様子はなかった。
というのも神殿の門を潜る際に一度顔を合わせていたからだ。出迎えの神人種の一人だと覚えている。
既に震えるだけ震え、怯えるだけ怯えた今、平気の平左でいるアーミラに対して、胸をなでおろしたのは獣人の男の方だった。
「僭越ながら改めて自己紹介をさせて頂きます。……とはいえアーミラ様は一度お会いしましたね。私は神族近衛隊副隊長ザルマカシム・スペルと申します」
ザルマカシムは二人に向かって深々と腰を折る。ガントールはすでに顔見知りであるため、他人事のように聞き流していた。隣のオロルは眼前に向けられた男の頭を眺めおろしながら眉尻を跳ね上げる。
「ほう……であればあのカムロとか言う女の下についておるのか」
「カムロを御存じでしたか、仰る通り、彼女は我が隊を率いる隊長、私の上司にあたる方で御座います」
「カムロと会ったのか?」と、こちらはガントール。
「少しな……昼に顔を合わせただけじゃ」オロルは眉を吊り上げて愉快そうに考え顔だ。「こんな大男を下すとは、あの女は大したものじゃな」
今度はアーミラが小さく手を挙げた。
「あ、あの、その、『スペル』というのは姓でしょうか?」
姓とは、特別な者にしか与えられない名前のことである。訳知り顔で質問をしたのは、アーミラ自身、刻印を体に宿して姓を手に入れたからだった。
例えばアーミラの姓『アウロラ』は、師匠である老婆マナ・アウロラから、正式な襲名ではないものの魔呪術の知識を修めた証として名乗ることとなった。オロルも同様に『チクタク』を名乗り、ガントールは辺境伯の階級的称号として『リナルディ』を名乗る。このような身分や功績を持つ者のみ姓を持つ。それこそ、ナルトリポカのアダンとシーナには姓は無い。であれば、この男の姓の由来は何か。
その問いについてザルマカシムは頷いた。努めて平静に振る舞おうとしたであろうが、内にある矜持が面持に現れたか、力強い返答となる。
「はい。私は前線での勲しを評価され神人種としての招請を受けました。現在は神族近衛隊に属しており、その際に勇名として『スペル』姓を授かりました。
由来はこの――」
言いながらザルマカシムは細剣の柄を右手でゆっくりと握りしめ、目の前の継承者に対して敵意はないことを改めて視線で伝える。これから行う行為が説明のために必要なことであると示すかのようにそっと抜剣すると鋒を天へ向けた。口元はささやくように術式を唱える。すると、ザルマカシムの言葉に呼応するように細剣から閃光が瞬き、剣身全体は魔力を纏って燐光が渦巻いた。
「――このような、詠唱を用いての戦闘に長けていることにあります」
鋭い稲光を帯びた剣を披露してみせると、被害が及ばないようにと空いた左手で丁寧に剣身を撫でて稲妻を取り去る。そして元通り細剣を鞘に納めた。
「なるほどのぅ……魔術剣士の獣人とは、類稀なる才覚に違いないわい」と、オロル。言葉の割に余裕のある態度は崩さない。褒めそやしてはいるものの、オロル自身も同程度の実力を保持しているだろうことが窺える。
「そうだな。本来獣人種は魔呪術を扱う才覚が魔人や賢人に劣る、それだけの魔力を剣に付与できるのは前線でもそうそうお目にかかれないぞ」ガントールもしきりに感心している。が、ザルマカシムは首を横に振って笑ってみせた。
「身に余るお言葉でございます。ですが、ことガントール様に於かれては私よりも遥かに熟達した魔術を扱う剣士であること、重々承知にございますよ」
「いやいや、それは謙遜が過ぎるさ。『スペル』という二つ名はその選択の幅にある。戦況に合わせて『詠唱』と『綴字』を選ぶことができるなら副隊長と言わずその上も目指せるくらいだろう」
「いやお恥ずかしい。そのように評価してくださるのは至極有り難いですが、カムロは易しくありませんよ」
ザルマカシムは人受けの良さそうな笑顔を見せた。ガントールも然りと笑みをこぼす。
なにやら盛り上がっている様子。アーミラは他人事のように少し離れたところから眺め、目の前の椅子に腰掛けるのは悪目立ちするかどうか思案していた。その椅子は、つややかに磨かれた木製の肘掛けを備えた深みのある風合いの上質な椅子である。脚部は緩やかに湾曲して有蹄動物を模しているようだ。革製の座面と背もたれは張りがあり厚みも充分。神殿ではこんな椅子一つとっても一級品らしく、革で作られた椅子自体アーミラは初めて目にする。心惹かれるのも無理はない。……はやく話が一段落しないかな。