婆から教わったこと、魔術の、そのすべて
「お師様……っ」
捨てられた教会堂の中では、ぐったりと褥に横たわる老婆と、傍で嗚咽混じりに呼びかける少女がいた。二人は共に白い肌に尖った耳を持つ――いわゆる魔人種である。
少女のほうは歳は十四を数えるほどか、まだ若く幼さを残す。老婆の年齢は判然としないが外見で推察するならばおよそ八十に届くだろう。当時からすれば大往生と見ていい。
それほど長命であった老婆であるが、最期を看取るのは少女のみ。しんとした教会堂はとうに打ち捨てられた廃墟らしく、めぼしいものはすべて取り払われたうら寂しい有様であった。
老婆は少女の声に瞼を開くと、濁った両目を少女に向けた。
左脇で膝を折り、心配そうに見つめている少女は、何度も何度も「お師様」と呼ぶ。縋りつくような碧眼の双眸は涙をためては溢れ、顎を伝って襤褸を湿らせる。
「……どこにも、……いかんよ……」
お師様と呼ばれる老婆は震える腕を襤褸から出し、少女に触れようとした。少女はその手を掴むとそっと頬へと導き、まるで失われゆく温もりを惜しむようにそっと擦り寄せた。
皺だらけの手に涙が落ち、静かに染み込んでいく。
肌に触れたその指先が、思った以上に冷たく、少女の胸を締めつける。
老婆はそのかすかな温もりを感じながら、自身の体温がもう戻らぬほどに冷えているのだと悟る。触れ合った肌は、生気を失い始めていた。
死期が近いことは、お互い十全に理解しているのだ。老婆は二度と目覚めぬ睡りの引力に抗い、重たい瞼を震わせてなんとか意識を保ちながら、万感の思いで末期の言葉を絞り出す。
「アーミラ……お前には、随分と、非道いことを……してきた……」呼吸が浅く、言葉は一息には紡げない。
「そんな……そんなことはありません」アーミラと呼ばれた少女は唇を震えさせて首を振り、老婆の辞世を聞こうとしない。その言葉を聞けば終わりが来てしまう。そんな現実を振り払おうと目を強く瞑る。睫から大粒の涙が零れた。
「聞け……アーミラ……これ、からは……何処へでも行きなさい……。婆の事は、……忘れて……」
「……っ! いや、嫌ですお師様!」アーミラは意固地に首を振って老婆との別れを拒む。「私は離れません……!」
「これだけ……これだけは……、約そく……よいか」
老婆は最後の力を振り絞り、焦点の定まらない瞳で少女の顔を見つめた。像を結ばない視界だが、老婆には少女が今どんな顔をしているのかがわかる。何処までも悲しい娘だ。これほどまでに多くの犠牲を払っても、果たして運命から逃れられるかどうか――
「……婆から教わったこと、……魔術の、そのすべて、人には、……決して……見せてはならん……」
少女は力の抜けていく老婆の腕を握りしめると、喉を詰まらせながら嗚咽を漏らし、崩れ落ちるように俯いた。
胸の奥からせり上がる痛みに耐えきれず唇を噛みしめるが、それでも震えは止まらない。
「流浪の民とは、異なる……まつろわぬ者が、お主と出会う……その、ときには……婆はしんだと……つたえておくれ……」
こと切れたように老婆の瞳孔が開く。
「い、き……な――」
肺の空気が吐息となって抜けたきり、最期の声が途切れてから、教会堂内には啜り泣く声だけが続く。嗚咽は勢いを増し、慟哭が響もした。
少女は師なる存在を失い、これからは一人で生きていかなければならない。そんな現実を受け入れるには時間が必要だった。この空漠を埋め合わせるにはどれほどの時間があれば足りるのか……少女にとっては永遠の絶望に等しい。
どれほどそうしていたのだろう。泣き疲れて涙は枯れてしまったが、肺は引きつって嗚咽は止まない。硬い床に座っていたからか膝の骨がしくしくと痛む。しかしアーミラはいつまでも老婆の傍らから離れなかった。『何処へでも行きなさい』その祈りが真綿のようにアーミラを包み込んで、思考に靄がかかる。いつだって……いつだってお師様は、突き放すような態度の中に優しさがあった……親の記憶もなければ身寄りのない私に手を差し伸べてくれた唯一の光……何処へでも行けというのなら、私は――
「お師様の……傍に……傍に居たい……」
アーミラはぽつりと呟くと、埋み火が風に煽られ再燃するように、収まりかけた慟哭の念が再び湧き上がる。アーミラは言葉にならぬ言葉を喘ぎ、喪失感にのたうち回り、赤く腫らした目に涙が滲みる。そうしてまた泣くのだった。
死後数刻、握った老婆の指は冷たく色を失い、肘から下に溜まった血液が死斑となって浮かび始めていた。落ち窪んだ眼球は渇き、顎が強ばり死後硬直を開始する。その隣でアーミラは強い絶望感に苛まれ、今となっては胸中に残された老婆の末期の言葉を反芻しながら、床に額を押し付けて起き上がる気力を失っていた。荒れた教会堂の毀たれた側面壁から西陽が鋭く射しこみ、数刻という長い時間をかけてアーミラの蹲った背中にぎらついた光を突き立て滑らせると辺りは夜の闇に覆われた。
アーミラはもはや、身動ぎ一つしなかった。
――それからアーミラが立ち上がるのは、集落へ向かう商人が付近の死臭を嗅ぎつけ、総出の騒ぎとなってからだった。
老婆の死からおよそ二日、アーミラは盆の窪を晒し蹲ったままの状態で腐敗液に身を浸しているのを大人達に無理やり引き離されてのことである。老婆は既に死後硬直の峠を越えて筋組織の腐敗が進み、強張っていた四肢は柔らかく溶け出して、褥には体液が染みて床板まで黒く変色していた。
一言で言えば壮絶の極み。駆けつけた大人達は鼻につく異臭と黒ぐろとした遺体の成れの果てに言葉もなかった。
アーミラ自身も飢餓と絶望に倒れ、虫が集るのさえも気に留めない有様で、最初の発見者である商人は、棄てられた教会堂に「死体が二人いる」と触れまわったほどだ。話を聞きつけた大人が死体を片付けるためにアーミラの肩を乱暴に掴み老婆と引き離したとき、彼女の体が腐っておらず、生きているのだと知って思わず悲鳴を上げてしまったほどである。
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老婆の遺体は、集落の者達が火葬として教会堂ごと野焼きにした。もとより捨てられた教会であり、死臭の染み付いた建物を残すことはできないと判断されたのだ。この地では間もなく収穫の時期を迎えるため、陰気なものは縁起が悪いと嫌われていたのだ。
腐敗の進む遺体を前に誰もが鼻を覆い、顔をしかめながらためらうことなく火を放った。
やがて炎が勢いを増し、朽ちかけた梁を飲み込むと、黒煙が立ち昇り空へと溶けていった。
幸か不幸か教会堂は基礎の部分が石造りであるため、そのものが遺体を葬る窯の役割をした。とはいえ野焼きの火力では、老体であっても完全焼却には到らず、長時間高温を維持して燃焼させることでようやっと老婆の遺体は炭になる。さらに一帯に蟠っていた不浄の臭いを焚きあげるまで、火葬は三日三晩の仕事となった。季節の変わり目に空模様は安定せず、時折ふる雨から火勢を守るために他の集落から魔術師を集める大変な作業となった。その間、アーミラは憔悴しきって意識を失っており、集落の女手によって介抱された。
多くの者が、髪と衣服にこびり付いた死臭を放つ腐敗液と蛆虫を気味悪がっていたが、なんとかしないことには解決しない。皆くちぐちに「貧乏くじを引いた」と腐した。大人たちは各々の労働時間と束の間の暇を、見ず知らずの他人の火葬に浪費することになったのだった。
集落の者達から邪険に扱われるのも仕方のないことである。
老婆とその少女は身寄りのない流れ物でしかなく、二人の名を知るものは集落にはいない。おおかた流浪の民の随行に付いてこれなくなった老婆が教会堂に隠れて住み着いたのだろう。互いに交流もなく、今回の件は寝耳に水の出来事であった。
穏やかに日常を営んでいる集落のそばで人がひっそりと死んでいるとは、怖気の走る話である。