18話 治癒の術式が溶けておる
「いよいよ明日だな」ガントールは唐突に振り向いた。「……って、恥ずかしがる割には、見るのは平気なんだな?」
「あっ、す、すみません!」
アーミラはガントールに指摘され、長く注視していたことに遅れて気付いた。ガントールは気にしていないと笑い飛ばす。つられて笑いかけるが、上手く笑えずに湯面に視線を落とす。浮かない表情の自分自身が水面に映り揺れていた。
「明日なんですね……」
日が沈み、再び昇れば継承の儀が執り行われる。神殿に呼び寄せられたのは、曰く、継承者の襲名式――心像灯火の儀――と、代々に伝えられる神器を授かるための儀式――神器継承の儀――その他諸々の式を執り行うため、そして戦場へと出征するための壮行式の準備が進められるということだった。
「私、その……自信、ありません……」アーミラは素直な心境を吐露した。ガントールは頷く。
「無理もないさ、今まで内地にいたんだからな。それが突然『国のために戦え』ってのは、アーミラには酷な話かもしれない」その言葉に、今度はアーミラがこくこくと頷いた。
「ガントールさんは何度か実戦も積んでますよね。 正式に神器を継承して、出征することは喜ばしいことですか?」
「もちろんだ」ガントールは勝ち気に笑みをこぼす。「リナルディ家はスペルアベルと縁のある血筋でな、辺境伯の中から継承者が出るのは願ったり叶ったりだ」
スペルアベルとはマハルドヮグ山嶺を迂回するように南下したところに位置する平原地帯の名だ。地理的にはムーンケイよりさらに前線側であったか、……確かそうだったはず、アーミラは地理に明るくないため思い出すのに僅かな間があった。
三代目国家ムーンケイの南西側国境と四代目次女国家デレシスの西側に接しており、過去永きに渡り戦場として進退を極めた。現在も内地での戦端が開かれた際には防衛線としての機能を保有していると聞いている。そこに縁のある血筋となれば、彼女の家柄は辺境伯の中でもかなり上の、重要な地位についているのではないだろうか。
「……とはいっても、妹はいい顔をしないけど……」
「え――」アーミラは思わず声を漏らした。『妹』?
どういう意味だろう。気になって問いを重ねようとしたが、二人の会話を断ち切るように湯浴み場の入口の引戸が勢いよく開かれる。驚いて顔を向けたアーミラは、湯けむりの向こうに人影を見た。
「ほう、ここにおったか」と、声がする。上背の低い子供のような人影から発せられる鋭い言葉の語気に何事かとアーミラは身を強張らせたが、存外に声が大人びている。湯けむりから抜けて現れたのは琥珀を焦がしたような肌をした少女だった。あどけない肢体を隠すことなく面前に晒し堂々と、睨め付けるようにして少女は言う。「姉共じゃな」
その瞳は値踏みをするようで、湯船に身を沈ませているアーミラからは、鼻越しに見下されているように見える。どう返すべきか躊躇っていると横のガントールが先に口を開いた。
「アーミラは初対面だったな。オロル、一体どこにいたんだ?」
「いろいろと、見て回っていたのじゃ。ここは蔵書も浩瀚を極めるからのう」オロルは応え、「此奴が例の次女か」と言う。どうやら二人はすでに知り合いのようだと、アーミラは心の内に微かな疎外感を覚える。
「あ、アーミラ・アウロラ……です」
「オロル。チクタク・オロルじゃ。当代は神殿預かりの者は長女のみと聞く。同じ身の上同士よろしく頼むぞ」いっそ不躾に言い終わるやいなやオロルは返答を待たず踵を返すと桶に湯をためて頭から被る。跳ねた金髪が湯に濡れて額に張り付くと、途端に随分と小さく見える。糠袋で体を擦り洗う背中を盗み見て、彼女の手の異変を言葉もなく認めていた。
「あの、そ、それ……」アーミラが指をさす。
「これか」オロルは予測していたのだろう。『それ』と呼ばれたものが何か理解しているようで、振り返ることもせず慣れた様子で答える。「刻印の失敗作じゃ」
オロルはここで「なぜ?」と続くことを予想していたが、アーミラは困惑したように狼狽えては、落胆したように湯に口元を沈ませてそれきり黙りこくった。オロルは眉を跳ね上げる。妙な奴だ。というのがこのときのアーミラに対する印象である。
「何も聞かんのか」
オロルは神妙な顔つきで黙りこくってしまったアーミラに問う。
「え、えぇ……はい」
そんな返答にオロルは心密かに憤る。そしてアーミラの継承者としての素養を疑った。魔呪術の研鑽において失敗こそ新たな発見の緒、ましてや他人の経験であればいらぬ手間を省いて知識を共有できるのだから、それこそ根掘り葉掘りと問質すのが作法であろうに。
「ふん……まぁよい」オロルはそう言って鼻を鳴らし、湯船に身を浸すと何かに気付いたように湯をすくい上げた。手のひらからこぼれ落ちる湯を眺める視線は険しい。
「どうした?」ガントールが言う。
「いいや、治癒の術式が溶けておる」
「歩き疲れただろう? ちょうどいいじゃないか」
「……別に疲れてなどおらん。先にあがるぞ」
烏の行水か、オロルは肩までろくに浸かることなく早々に湯浴み場をあとにする。まるで湯を嫌うかのようだった。その背を見送って、ガントールも身動ぎをした。
「すっかり長湯した。私もあがろうかな」ぐっと両手を天へ伸ばし背を反らせると息を吐いて、一応は距離を保ちたいのかオロルが身支度を済ませるまでの余裕を持ってから立ち上がる。「よし、じゃあまた」
アーミラは束の間一人になり、そしてその孤独に居心地のよさを思い出していた。知らずのうちに浅くなっていた呼吸を自覚して、湯船から半身をあげて岩に腰掛けると火照った体を涼ませてゆっくりと息を吸い込む。鉱物の何かしらがそうさせるのか、やや瓦斯臭い生暖かな空気で肺を満たす。思ったよりも胸の苦しさは晴れなかった。
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ガントールが湯浴み場から脱衣所に出ると、オロルはまだそこにいた。充分な時間を開けていたつもりだったが些か早かったかと心の内に呟いて、さして気にすることもなく乾布で全身の水気を拭い、濡れ髪を乾かし始めた。その姿をオロルは眺める。
「やはり義手か」
「ん? ……ああ、握手をした時に気付いていたかと」ガントールは思い出す。
ムーンケイでの初対面、そのときに交わした握手。オロルはそこで眉を顰めていた。掌に伝わる何かしらの違和感――篭手の内側が空洞であること――に気付いたのだろう。
「隠す素振りもなかったじゃろう」と短く返して、それよりと本題に入る。「あの女、傷を見たか?」
オロルが問う。その言葉を背中で受け止めて髪を乾かす手を止める。どうやらアーミラのことが気になって脱衣所で待っていたらしい。
「見たよ。性格は臆病そうだけど、あの傷はとても内地育ちじゃないね。死線を潜った戦士でさえもっと綺麗な体をしてる」これはガントールの皮肉か。
「どう見る?」
「今のところは、なんとも。仲良くやっていけるんじゃないか?」ガントールは曖昧に笑ってみせた。
「なんじゃい」オロルは呆れた声でガントールを見上げると、頤に手を添えて視線を横へ流した。「強いと思うか?」
「どうだろう……」ガントールは臆面もなく頭を抱えて考え込んだ。「印象だけだと、とても戦えるとは思えないけど、それなりに術はあるんじゃないか。何も剣を持って斬りかかるだけが戦争じゃない」
オロルは先行きの不安を見定めるように目を細めて眉を顰める。
「ふむ。わしを選んだ神様なのじゃから目は確かじゃろうしな」
ガントールは眉を下げて笑う。その満ち溢れた自信はなんなんだ……
「信じる他ない……か。
……神の御心のままに」
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[03 継承者 完]
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