裸を見られるのが恥ずかしいのか? 女同士だろ
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「はぁ……極楽……」
宵の口。吹き込む初夏の風は平地からの雨雲を運び山肌を洗う。そんな折、うっとりと湯に全身を浸し、滑らかな岩肌に首を預けて目を閉じるガントールとアーミラがいた。ここは神殿の一劃、神人種の生活圏と重なる湯浴場である。
一日を神殿の中で過ごし、これまでの人生では目にすることのなかった新しいものの数々、神殿という生活圏に形成された格式高い文化、あらゆるものが新鮮であり、同時に落ち着けないものであった。ただでさえここへ辿り着くまでの道中も険しい山行である。そこへ来ての温泉というのは誰にとっても極楽の境地だ。アーミラは集落に残した二人に一抹の申し訳なさを感じつつも、出征までの時間を遠慮して無駄にしてはもったいないと割り切り、むしろ心ゆくまで楽しむことにした。
これまで身を清めるには桶に貯めた井戸水か、せいぜい沐浴が当たり前のことであったが、ガントールに連れられて来た温泉……なんという贅沢か! 湯を溜める半露天の湯槽だけでも教会堂一つ分の広さはあるだろう。これほどの空間を体を洗い清めるためにのみ使用するとは。それだけでもアーミラを驚かせたが、ガントール曰く、湯浴みではかけ湯に留まらず、全身を湯船に沈ませるのだという。恐る恐る足の爪の先から湯に沈ませると、骨身に染み付いたこれまでの労苦がじんわりとした熱に温かく包み込まれ、肌が輪郭をなくして溶けてしまいそうになる。このまま目を閉じたら深く眠りの底へ沈んで目覚めないのではないだろうか。神殿で生きる者達は毎日こんな心地よいものを愉しんでいるなんて……!!
マハルドヮグ山から湧き出る源泉を引いているだけあってなにやら水質もただの水ではないようだ。アーミラは両手を皿のようにして湯をすくうと僅かにとろりとして乳白色の濁りがある。何か治癒の術式を混ぜているのか、濁りの中に燐光を纏い夕暮れの時分に青白く仄かに光っている。すくった湯で顔を温めると恍惚に目を閉じる。
「髪は湯に浸からないように纏めたほうがいいぞ」
ガントールは良心からそう言ったが、アーミラは少し困った顔をして愛想笑いをした。
「え、いやぁ……はは」
「裸を見られるのが恥ずかしいのか? 女同士だろ」
「そういうわけでは……」
少し躊躇いがちに、アーミラは湯面に揺蕩う髪を両手で束ねて器用に纏めた。そして恥ずかしそうに首元まで湯に沈める。身を落ち着けると、アーミラは顔にありありと喜色を浮かべる。隣では我が事のようにガントールが手柄顔で口の端を吊り上げ小さく笑うが、湯に沈めた一糸纏わぬアーミラの体を見ると声もなく驚いた。彼女の全身にはいくつもの裂傷跡が見て取れたのである。小傷ではない。致命傷と思える程の深い傷痕だ。肉を穿たれたような跡に真皮質の蚯蚓腫れが見ていて痛々しい。首元は特に酷く、傷のせいで皮膚の色さえ薄赤くなっている。髪で隠したかったのか……なんだか悪いことをしてしまったな……。
「すまないな、首の傷を隠したくて髪を下ろしていたのか……」
「あ、……はい……でも気にしないでください。わ、私が勝手に恥ずかしがっているだけで……」
前線を生きるガントールでさえ、須臾の間閉口してしまった。オロルもアーミラも内地生まれだというのに傷だらけではないか、なんだか私の方が恩寵育ちだな……。そう思う一方で、やはりアーミラについて推し量るのはますます難しくなる。戦えるのかどうかはいよいよ実戦を見てみないことには判断しかねるといったところか。
「なぁ」ガントールは岩を枕にしてアーミラに声をかける。
「はいっ!?」不意に声をかけられたせいでアーミラは不必要に驚いてしまった。湯面に波が立つ。
「はは、いちいちそんなふうに驚いていては心臓が持たないんじゃないか?」
「うぅ、すみません」
「いいさ」ガントールは続ける。「アーミラは胸に刻印があるんだな。それが次女継承の紋様か……初めて見た」
アーミラは乳白色の湯に沈んだ自身の胸元に目を落としてはにかんだようにぎこちなく笑う。
「まだ、実感が湧かないです……」
天体を象る刻印が、彼女の胸にくっきりと刻まれていた。
下地となるのは、夜空に浮かぶような真円。その中心には、上下を指す三角形が重なり合い、六芒星を形作っている。外周には、解読不能な古代の文字がぐるりと刻まれ、さらにその外側には弧を描く弓が添えられている。そして、真円の中心を貫く一本の斜線が斜めに交差していた。
この刻印はいわゆる天球儀と呼ばれる神器を象るものであり、弓から伸びて真円を貫いている斜線は地軸と天軸を表している。
アーミラは自身の首元に湯をかけながら刻印を撫で、皮膚の痛みがないことを確かめる。内側は墨を入れたように黒い。指の腹で触れるとすべすべとしていた。ふとアーミラはガントールの方に視線を向けて首を傾げる。そういえば……。
「あ、あの……ガントールさんは、どこに刻印があるんですか?」
一度は途切れかけた会話。それをアーミラの方から言葉を継ぐのは少し勇気を必要とした。しかし、生来の好奇心が後押しをしたのだろう。思いの外すらすらと声に出すことができた。
「ん? ああ、私はここだ」
ガントールは岩から頭を起こして半身を後ろへ向ける。アーミラの方に背中を向ける形となった。
細いうなじを外気に晒して、背は駿馬のようにすらりとして陰影に富む。余分な贅肉はなく、肥大しすぎた筋肉もない。アーミラは頭のより動物的な直感で理解していた。これは鍛練で手に入れた躰ではなく実戦の中で磨かれたのだろう、と。
そしてある種の機能美と女性性を兼ね備えた彼女の後ろ姿には、縦横に駆ける細い傷痕が刻まれていた。戦場で負ったものではない事は明白で、つまりはそれこそが長女継承の印。
描かれた紋様はアーミラの身体に刻まれたものよりも比較にならないほどに大きい。次女継承の刻印が両手で収まる程度であるのに対して、ガントールの背中に刻まれた長女継承の刻印は肩から腰にかけて雄々しくどっしりと構えている。
下地に描かれているのは地を指し示す正三角形。その上に均衡を保つ両天秤が重ねて描かれ、吊り下げられた左右の皿にはアーミラのものと同様の書体を持つ文字が載せられている。下部に台はなく、代わりに本体の柱部分は剣の形状をしており鋒は三角形の下端を突き抜け背骨に沿って臀部に伸びる。
と、そこでガントールは前髪を右腕でかきあげて、湯気で額に貼り付く髪を房ごと指先で持ち上げ撫でつける。その動きに追従して肩甲骨が滑ると、アーミラからは背中の天秤がまるで傾いたかのように見える。ちょっとした技巧か、神の遊び心だろうか? アーミラは小さく吐息を漏らす。
私のような不釣り合いな印象を微塵も感じさせない、靭やかな身体によく似合っている。アーミラは素直にそう思った。見惚れるように眺めていると、今更ながらガントールの右腕の違和感に気付いた。あまり目を合わせないようにしていたことと、視界の陰になる立ち位置の都合で一糸まとわぬ姿でもいまの今まで意識が向かなかったのだ。背中越しではあるが、どうやら二の腕の中程から断ち切られており、そこに黒錆の義手が嵌め込まれている。
「どうだ? 私は自分の刻印を見ることができないからな、どのようなものかよくわからないんだ」ガントールは首だけを後ろに回してアーミラに問う。身を捻らせて刻印を一目見ようと苦労して、諦めたように天を仰いだ。「あの鏡がもっと大きくて綺麗なら、私も見れたんだがなあ」
独り言にしては大きい声でぼやいては、湯浴み場壁面の曇った金属製の板を見る。ある程度なら姿見として機能するが、座高に合わせて低い位置に嵌められているためガントールには不便だった。幼い頃にも背中を見ようと奮闘した経験があるらしいが、身を捻って窺えるのは半分が精々、歪みなく刻印の全体像を見ることはできなかった。