173話 おかえり
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《《真理》》は消え去り、《《形》》もまた崩れ去る。
これまでの世界は終わり――新しい時代が始まろうとしていた。
避けた大地は空に浮かぶ島となり、その向こうで人類は黎明の訪れを見た。
不吉に輝いていた太陽は、悪夢から目が覚めたように澄み渡る青空を照らし、この世の終わりに怯えていた早朝の街の一隅、震えていた母の腕で赤子は彗星を指をさした。
明けの空を駆ける流れ星。
長く尾を引く天体は、いつかカムロが占星術によって導き出した、破滅を知らせる彗星である。
その彗星と影を重ねるように、ウツロとセリナは降臨した。
カムロが頭を悩ませ続けていた天体は、来たる聖者の到来を示す――
「……で、ついて来たけど、こんなところで何するの?」
セリナは彼に問う。
眼下に広がる大穴は歴史に因縁深い禍人領の根城……翼人が築き、神によって沈められた塔が静かに口を開けている。
「こいつを抜くのにセリナが必要だと思ったんだ」
「こいつって……」セリナは流石に正気を疑わずにはいられない。「引き抜けるものなの……?」
「神が言うには、この塔は楔なんだ。世界を繋ぎ止めるための楔……」
「だったら余計に抜いちゃ駄目じゃん」
「いいや、作り変えるには邪魔だ。……それでこれは相談なんだが」
彼は口籠って斧槍を手遊びにくるくると回す。
「神と龍の力を受け継いだってさっき言ったけど、独り占めは荷が重くてさ。どちらかをセリナに譲ろうと思ってる」
セリナは腕を組み、片眉を吊り上げた。兄がなにか思い悩んでいるとは思ったが、そういうことか……。
「私は龍がいい」
「そんな簡単に決めていいのかよ」
「神ってキャラじゃないし、見た目も龍じゃん、私」
「そうじゃなくて、龍になったらこの世界の理を司ることになってだな――」
「兄貴を」セリナは彼の言葉を遮った。「お兄ちゃんを一人にさせない」
「……そう、か」
腑に落ちたように彼は息を吐く。
「セリナならそう言ってくれるんじゃないかって期待してた。だけど言わせてくれ。ありがとう」
「アーミラじゃなくてよかったの?」
「アーミラには穏やかに過ごしてほしいんだ。これまで使命ばかり背負わされていた。これ以上辛い思いをさせたくない。自分の人生を生きてほしいって思ったんだ。
いや、セリナにも当然同じことを思ってるけど」
「好きなんだ?」
「え、――」
「アーミラのこと。好きなんでしょ」
セリナはにやりと笑い、意地悪な視線で兄を誂う。
頬が赤くなるのを自覚して、彼はぶっきらぼうに応えた。
「もういいだろ、始めるからな」
受け継いだ真理の片方をセリナに授ける。理の龍の力を継承したセリナは、冠のような頭角を生やし、大きな翼が長衣のように身を飾った。
兄は肉体を持たず、虚の鎧として。
妹は希望を持たず、龍の娘として。
この世界に招かれた兄妹は、空の器だった。
器は人々の祈りで満たされ、奇跡は起こる。
兄妹は息を揃えて旧時代の楔を引き抜いた。
破壊と再生を繰り広げる星は、失った半球を取り戻し形を変える。
そのうねりによって、大陸と海は手を取り合って踊りだした。
空は七色に輝き、歌うような風が吹く。
新世界創生の最中、神は内から湧き出る歓びに相好を崩し、一つの詠唱を口ずさんでいた。
声によって旋律を発声する行為。この世界には未だかつて存在しなかった――『歌』と呼ばれるものである。
「これって、確か……『Change the World』?」
セリナが曲名を言い当て、彼は歌いながら首肯で応えた。
「……うん……世界を変えるのにぴったりだ」
世界に歌が響き渡る。
❖
「……あ……」
天変地異により標高を下げた旧マハルドヮグ山の小高い丘にアーミラはいた。この天変地異を恐ろしいとは感じなかった。彼の穏やかな声が、詠唱が聞こえていたからだ。
彼女はウツロとセリナが行っている新世界の創生を見つめ続け、ある程度大地の狂乱が収まると空を見上げた。
空に揺蕩う光の帯。
それはアーミラだけでなく、ガントールとスークレイの瞳を釘付けにしていた。
「七色に光ってる……」双子の瞳はそれがなにか分からないままに目を奪われている。
「星の極域でしか見られない大気の発光現象です」アーミラは得意げな顔をして言い添える。「極光……私の姓の由来でもあるんですよ」
「綺麗だ……これは魔術じゃないのか?」
「はい。虹や雷のような自然の現象だそうです。とても珍しくものだと、昔お師様から聞いたことがあります……」
アーミラは万感の思いで極光を見上げる。知識としては知っていても、初めて見る景色に心が震えている。きっと、マナもみたことはなかっただろう。
なぜだか、揺らめく極光を眺めていると、隣にマナが寄り添っているように感じられた。
「一度見てみたいと思っていました……」
マナの気配は、アーミラに微笑むように頷き、大気に溶けていく。
一方で、オロルもまた彼の幻を見る。
一度目の人生では辿り着けなかった、終戦の思いがけない祝祭。
年相応の無邪気な笑みと、苦節に報いる涙をこぼした。
「……フリウラ……」オロルは幻に向かってそっと声をかける。
吐息で消えてしまうのではないかと思うほどに儚い彼の姿に、言葉が詰まる。積み重ねた歳月があまりにも多すぎる。
「わしは、報われたのじゃろうか? この奇跡を前にしても、悔いは消えてはくれぬ。
お主のいない世界を生き続けることの後ろめたさは、きっと消えんのじゃろうな。
……じゃがのぅ、それでも今日が美しいと思える」
オロルの流した一筋の涙は頬紅に滲み、白衣に染み込んだ。
彼の幻は微かに頷いて、風に流されて空へ昇った。
セラエーナは極光を見上げる首に疲労を感じて視線を落とす。そして側に座っている姉の脚が新しく生え揃っていることに声にならない驚きの叫びを上げた。
「ね、姉さま……っ、足が……!」
「そういえば妙に痒い――あれ……」
ガントールはまるで夢のようだと、自分の足を凝視して、裸足の指を動かしてみる。神経が通った綺麗な足が揃い、姉妹は飛び跳ねて抱き合った。快活なガントールの笑い声が響く。
ザルマカシムはカムロと共に天変地異を見守っていたが、新世界の美しさに警戒する気持ちも萎え、心配しても無駄なのだと笑みを見せる。肩の荷が下りた、二人穏やかな微笑みだった。
これからの世界に種族の壁は存在しない。手を繋ぎ、唇を重ねる二人を囲って勇名の仲間達は気恥ずかしさと晴れやかな心で祝福した。
いくつもの夜を越えて、奇跡に満ちた朝が訪れた。
奇跡は神殿だけにとどまらない。
旧ナルトリポカでは光の波が大地を駆け抜け、石畳が熱を帯びたかと思うと、温泉が噴き上がる。
人で溢れていた街道は優しい雨に打たれる。太陽は黄金色に大地を照らし、立ち上る湯気に虹がかかり、きらきらと全てが輝いて見える。
「ねぇ、アダン……!」
「ああ、きっとそうだ。アーミラはやり遂げたんだ。俺たちの娘が……やったんだぞ……!」
旧スペルアベル平原は創生により豊かな森に変化していた。
目の前で木々が生え、次から次へと空に向かって幹を太くする。
木陰からは、どこから現れたのか動物たちが顔を覗かせる。
神がかりの光景を目撃して呆然としていたイクスに蝶がひらひらと戯れる。
「幻術じゃ、ない。……どうなってるの?」
ナルが袖を掴み、手で扇いで蝶を追い払う。戯れる蝶は今度はナルの周りを舞った後、気ままに森へ飛んでいった。
「心配ないだろう」
ニールセンとセルレイが邸から出て空を見上げる。
「当代継承者がやってくれた。……そんな気がするんだ」
「ううろ」と、イクスは呟く。
「……ウツロか。そうだな。斧槍を託したあの鎧も、頑張ってくれただろう」
長く暗い黎明の終わり。
暁の射す新世界の始まり。
渾天から球へ、形を取り戻した星は、空と海の繋がる果てしない世界へと生まれ変わった。
様変わりした世界は眩しく、清廉で、希望に溢れていた。
アーミラは、舞い戻ってきた彼を満面の笑みで迎える。
「始めまして、アキラさん。
そしておかえりなさい。ウツロさん」
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爾後。
世界を終戦に導いたアーミラは、アダンとシーナのもとへ向かった。
胸を張っての帰還だった。
異世界人の兄妹が創生したという事実は、生き残った人類には知る由もなかった。
その事情を理解できるように語るには時世が悪く、焦眉の急新たな世界には新たな秩序が求められた。それは兄妹が受け継いだ真理とはまた別の、人の心の拠り所としての秩序である――つまり、法が求められていたのだった。
アーミラは翼人の負の遺産を旧時代へと全て濯ぎ落とし、全く新しい国の勃興に際して戴冠を丁重に断った。終戦に導いた功績を認められても、翼人の血を引く己の身を秩序の中心に据えることは否定的だったのだ。並びにセラエーナもまた帝政国家の樹立には反対の姿勢を示した。
その代わり、玉座にはオロルがついた。
島嶼卜部族の産まれから三女継承、前線出征を経ての大出世である。
オロルは戦時に切り落とされ、まだ生えたばかりの綺麗な手に傷が付かぬようにと手袋を装着し、新たな建国の事業として新酒の醸造に取り掛かった。はじめは市民から、『浮かれた君主』だと評されたものの、争う敵国が存在しないこの時代において、我先に平和を楽しむオロルの姿は人々の不安を大いに和らげた。
王の右、騎士団長の地位に収まったのはガントールで、方や左の宰相にはスークレイが就任した。度量と誠実さを併せ持つ国家の両天秤である。
旧マハルドヮグ山脈は沈下して海に沈み、当時の威光は海底の遺跡となっていた。過去のあらゆる文献や歴史書は消失し、都は陸地を残すナルトリポカに遷都することとなった。
街はどんなものでも入り用で、復興に忙しい。
商人は互いの利益分配を語り合い、朝も夜も活気に満ちている。
人々の生活は、少しずつではあるが、平和というものを実感し始めていた。
戦争のない世界。
災いの渦が消え去った日々の中で、人々の関心は新たな景色へと向けられていた。
それは健全な欲求――知的探求心の萌芽であった。
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旧アーゲイ。
まだ土地の名も決まっていない、港の遺構を元に再建された船着き場にて。
よく晴れた秋の空。大海原には一隻の船が係留していた。
その船はまだ見ぬ星の裏側、人類未踏の大陸を目指し、新たな地図を描き始めようと船出の準備が着々と進められていた。
この船に乗船する者の一人にアーミラはいた。
彼女は天球儀から羅針儀に持ち替え、希望の海原を望む。
――そう、アーミラはまたも旅立とうとしていた。
しかし、今の彼女は根無し草ではなかった。帰りを待つ家族ができたのだ。
「もう、ゆっくりしたって誰も怒らないだろうに……」
「なんだがじっとしてられないんです……わくわくして、眠れなくて」
シーナは不満げに頬を膨らませてみせたが、荷造りに忙しいアーミラは気にも留めていない。シーナの方も、娘が一処に留まるような質ではないのだと内心では理解していた。
「そんなんじゃ船でへばっちまうぞ」アダンが工房から口を挟む。「世界地図を描くんだろう? 忘れ物はするなよ」
「わかってますよ、アダン」アーミラは工房に届く声で返事をする。
紙や蝋燭、仕事道具で膨らんだ鞄を引っ提げてアーミラは部屋を出る。
慌ただしい足音が廊下を横切り、アダンとシーナが見送りに立つ。
「帰ってくるのはいつになるの?」
「一年はかかると思います」
「じゃあ、帰ってくるころにはお姉さんだな」アダンは言う。
「……え、それって……」
シーナは照れ臭そうお腹をさする。
夫婦の間には新しい命が宿っていた。
「シーナさん! わぁ、隠してたんですか……!?」寝耳に水だったアーミラは口元を押さえて目を輝かせる。「気付きませんでした……」
「驚かそうと思って」シーナは悪戯っぽく笑う。「アーミラもウツロさんと仲良くね」
「今はアキラさん、アキラ・アマトラですよ」
「噂をすれば、ほら迎えが来たよ」
シーナは背中を叩き、アーミラを送り出す。
「では、行ってきます!」
――これが、空白の歴史の真実。
黄昏に光を齎した女神アーミラの物語である。
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[21 暁 完]
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