170話 神様ってのは俺が嫌いで、俺も神様が嫌いだった
俺は新たな疑問を口にした。
修復を諦めていると言うのなら何故娘に神器を授けるのか。この介入には矛盾がある。
「思えば不思議だったんだ。『天秤』『天球儀』『柱時計』……この三つは全部《《はかる》》ためのものだ。
それがなんで兵戈なのか。どうして戦士でもない娘ばかり前線に立たせるのか」
シンはこの問いに対して小馬鹿にした笑みを浮かべた。彼が初めて見せた悪意の滲む表情に俺は向き合う。
「神器はいずれも、世界を形作るために用いた計器だ。壊れてしまう運命ならば私にはもう必要がない。……これが一つで、か弱い娘すら強力な兵戈に変わるのだから、授けることになんの不思議もないだろう」
「それなら兵士でも戦士でもよかったはずだ。品性の捻くれた野蛮な奴に渡せば望み通りに世界を壊しただろう。
でも神様はそれをしなかった。百年かけて無垢な娘を見定めて、世を糺す使命を背負わせた。なぜだ?」
剣呑な空気が漂い始めたのがわかる。
それでも俺は糾弾するように語気を強めてしまう。運命に翻弄され前線に倒れた彼女達の無念を思えば、言葉を抑えることができなかった。……あのとき俺がどれだけ神を恨んだことか。
「分かっていないな」シンは口角を吊り上げる。「戦う術を持たない娘を選ぶからこそ、眺めていて愉しいのだろう?」
愉しい……?
愉しいだと……?
俺は怒りに任せてシンの胸ぐらを掴んだ。霊体ではすり抜けてしまうかという懸念が過ぎったが、少年の身体は俺の膂力に振り回され捕らえられた。
小さくて軽い体だ。
こんな惰弱な神に彼女たちの人生は傷付けられたのか……だとしたら真実は残酷だ――いや、隠された真実が優しかったことなんて、一度もなかった。
「デレシス、ラーンマク、アルクトィス……みんな優しいやつだった。お前に選ばれなければ……っ!」
俺はシンを睨む。
視線が交差しているが、魂が瞳孔の奥へ吸い込まれる感覚は無い。
「四代目は優秀だった。彼女達が門を開いたおかげで君が現れたのだから。君を眺めているのもいい暇つぶしにはなったよ」
俺は叩きつけるようにシンを投げ飛ばした。
雲海に少年の身体が受け止められ、衝撃を逃してふわりと着地する。
脳裏では、瘡蓋が剥がれて血が滲むように、風化した記憶が色付くのを感じていた。
「思い出したよ……神様ってのは俺が嫌いで、俺も神様が嫌いだった」
人としての短い一生を終えた最後の日……瓦礫を孕んだ濁流に揉まれて、息が続かず身動きさえままならない極限の焦燥と死の気配。俺は何も成せない人生を嘆き、神を呪ったものだ。
「ふむ……神殺しを望むか」シンは問いかけるでもなく呟いた。「当時とは違い、今の君は挑むことができる」
俺は拳に力を込め、指の骨が鳴る。
ここに俺がいる理由が……意義が、問われている。
「四代目は俺をこの世界に召喚してくれた。五代目はここに導いてくれた。……託された願いが神殺しなら、俺はそれを成すだけだ」
虚として生きたここでの二百年。たくさんの命が俺を追い越しては消えていった。先代の継承者だけでなく、前線に倒れた兵士や、神殿で語り合った神人種たち……彼らがその一生のうちに果たすことのできなかった悔恨や無念は、鎧の内側に堆積している。
「神様を倒す……!」
「それでよし……!」
シンは俺が神殺しに挑むと信じて疑わない。纏う衣をはためかせて一足飛びに仕掛けてきた。対する俺は右手に意識を集中させ、望むものを召喚した。
この体に流れる血は龍の力を宿す青生生魂……。それは魂と呼応することで溶湯となり、灼熱に蕩けた金属は血管から噴き出し掌の中で渦を巻いた。
神殺しの刃に変えることは造作もない――だが俺は、この龍玉を円盤状に押し固める。
少年の繰り出した蹴りとぶつかり、じゅう、と足裏を炙る。シンは咄嗟に飛び退き、雲海に足を擦って熱を冷ました。俺の構えた得物を睨む。
「……盾……?」
それはまだ熱くもうもうと煙を吐き出す――灼熱の円盤。
「鏡だ」
シンは俺の持つ鏡に呆然と視線を向けて立ち尽くす。先程までの殺気は熱気に押し流され、困惑の時間が流れる。
「私を倒すのだろう?」
「ああ」
「ならば矛を持て。かかってこい」
シンは両手を広げて挑発し、俺を焚き付ける。
「違うな」
「なに……?」
「倒すとは言ったが、殺すとは言ってない――真実を炙り出す」
俺は鏡を構える。磨き抜かれた平滑な面がきらりと世界を反射して、そこにシンの鏡像が映る。
「隠しごとは無しだ」
掲げた鏡から溢れ出す光に呑まれ、二人は深い深い精神世界へ向かった。
隠された真実……失われた真理を明らかにする。
❖
世界が崩壊を始めたとき、シンは崩れゆく星を繋ぎ止めるために楔を打ち込んだ。
その楔こそ、人類が築き上げた塔である。この一事が災禍戦争の始まりだった。
深々と地中に突き立てられた塔を中心に星は形を変え、半球の渾天となった。……それから百年。翼人と龍人の争いは終わることはなく、シンは一人の娘に神器を与えた――初代継承者の誕生である。
流れ込む星の記憶。
これが隠された真実。
「……神様は戦士でも兵士でもない娘に、善悪を見定める機会を与えた。これが初代の天秤だな」
目の前で再現される当時の情景を前に、俺とシンは並んで立っていた。
再現される人類の歴史。星の記憶を二人は見届ける。
場面は二百年、三百年と経過する。
今、二人の目の前には、当時のシンが映されていた。神器に祈りを込め、下界の娘に託す姿は健気そのもの。とても人類に愛想が尽きたとは思えない姿だった。
「二代目にはどこまでも逃げられる力を与え、三代目には無限の思考を与えた。……全部、この世界を立て直すのに必要な力だ。
……あんたはたった一人になっても、修復する方法を模索していた。その手がかりを求めて下界の娘に権能を与えたんだな」
「……そうだよ――」
シンは観念したように応えた。
「――兵士や戦士では駄目なんだ。力を求めない人間に、この神器を委ねる必要があった」
場面は四百年が経過する。
「下界の苛烈さは増すばかりでね。だから四度目の継承者は三人揃えて戦力に余裕を持たせた。それでも、翼人が制度を整え、巫力によって娘たちを前線に送ったせいで倒れてしまった。
本来の五代目に至っては奥之院に捕えられてしまった。
だから六代目は、翼人より先に見つける必要があった。だが、一人の魔術師〈マナ・アウロラ〉が継承者に相応しい娘を隠したせいで、探すのに苦労した」
場面は目まぐるしく真実の年表を流し、現在に追いついた。鏡は血液に戻り、俺の皮膚に浸透して消える。
「愛想が尽きたというのは嘘だな。龍と共に創造した人類を、世界を、諦めていなかった。だが崩壊を止める手段が見つけられずにいたんだろう」
神は頷く。
俺は続ける。
「だから憎まれるように振る舞い、この世界にうんざりした奴がここにやってくるのをずっと待っていた。そういうことだな」
そうでなければ、正義よりも妹を優先するガントールに天秤を授けない。
そうでなければ、失った記憶を追い求めるアーミラに天球義を授けない。
そうでなければ、思慮深く後悔を何より嫌うオロルに柱時計を授けない。
この世の姿に異議を唱え、真理を追い求める素質がある娘を継承者に選んでいる。
例え俺でなくとも、もしかしたらガントールが、アーミラが、オロルが。或いはザルマカシムがここに辿り着いていたかもしれない。理不尽に対する恨みを携え、怒りに燃えて神と対峙していたかもしれない。
他でもない、神によって招かれて……。
「神殺しを望んでいたのは、俺じゃなく神様だ」
俺はじっと反応を待った。
シンの思考する息遣いが聴こえる。
長い沈黙を経て、シンは口を開いた。
「……正解だ」
その口調は諦観の吐息と共に、白状するようであった。




