169話 これが答えだ
「……こんな感じだったか」感嘆に声が震える。
俺は暫し、神前にいることを忘れて全身を確かめるように撫でた。霊体では体温を感じられないが、指先で触れる肉体の感触が新鮮で、懐かしい気持ちにさせた。
ふと我に返って神の方へ向き直る。敵意は感じられないが、本当にコトワリとは別人なのだろうか。
「失礼ながら……あなたは、神なのですか?」
「『真』だよ」
「シン……?」
「真と書いてシン。真実の神さ。…… 神を騙るだけの翼人種とは違うよ」
真の、神。
なるほど……やはりコトワリとはよく似た別人なのだと理解する。頭角の有無以外は鏡写しのような二人は双子なのだろうか? あるいは『三女神』の言葉通りもう一人、合わせて三人の神が存在するのだろうか?
頭に浮かぶ幾つもの疑問。問いかけるより先に、シンは本題へ入った。
「君をここに呼んだのは見せたいものがあるからだ」
真剣な声音で見上げるその瞳に吸い込まれて目が離せなくなった。
井戸の底の水鏡のような瞳孔に、自分の影が映った。俺は反射する己の鏡像と視線がかち合い結びつく。自我が溶けていく恐ろしさがあったが、抗い難い引力に吸い込まれて声も出ない。
「見せたいものはこれではない。意識を保て、イノウエアキラよ」
名を呼ばれ、深淵に微睡みかけた意識が浮上するのがわかる。
俺は眠気を晴らすように首を振った。
「今のはなんだ?」
「円環の入り口だ。私の目を見ないほうがいい。輪廻に呑まれてしまうぞ」
なんだか恐ろしい言葉に、無い肝が冷えて顔を逸らす。
シンは口角を小さく吊り上げて「それで良し」と笑む。俯いた俺は、シンの胸元に視線を移して、彼が少年であることに気付いた。
コトワリが少女であるから、シンもてっきり少女とばかり思っていた。長い髪と端正な顔立ちに惑わされるが、纏う布からはだけた肩は筋張っていて、声の響きも少女の声帯とは異なっている。
それとは別に、コトワリとは表情の印象も違っていた。
蠱惑的で余裕のある笑みを浮かべているコトワリとは対照的に、悲しみを堪えているようなシンの硬い表情。この世を憂うのとはまた違う、何があっても本心を見せるつもりはないといった意地を張る幼子の雰囲気がある。
俺の視線に対し、シンは冷ややかな流し目をして体の向きを反転させ、先を歩きだす。案内されるままに数歩後ろを着いて行った。『見せたいもの』が、この先にあるのだろう。
「神様は――」
「シンと呼んでくれ」前を向いたままシンは言う。「謙る言葉遣いも必要ない。私と君は対等だ」
対等という言葉には引っ掛かりを覚えたが、思えばコトワリとの関係も堅苦しいものはなかった。案外天界に棲まう者は人間に寛容なのかもしれない。
「――では、シン。単刀直入に聞きたい。なぜ争いを止めなかったんだ?
六百年も殺し合う世界なんてどう考えてもおかしい。シンには人を導く力があるはずなのに」
長い髪に隠れた少年の背中は応えず、足早に雲海を踏み進む。
「人が愚かな行いをしていたら止めてやればよかったんじゃないのか? 塔を沈めたときみたいに」
無視を決め込むシンの態度に俺は戸惑った。
まるで声が届いていないかのようだった。機嫌を損ねるわけでも、肩を怒らせるわけでもない。ただ虚空へ声を発している気にさせる。不在の沈黙だった。
行き場を失った問い掛けは俺の耳に残り、独り言の自問自答に変わる。……なぜ争いを止めないのか……。
俺は釈然としない思いを抱えながらも、これ以上の追求はやめた。
程なくシンは足を止めて、無視していたことが嘘のようにこちらに向き直る。
「ここから下を覗いてご覧」
勧められて辿り着いたのは雲海の終わり。
シンは先へ促すと俺一人を縁に立たせた。
踏み外さないように恐る恐る下を覗き込めば、宇宙から星を望む距離で外界を眺めることができた。それと同時に、シンがこの景色を見せたかった意味を知る。
「これが、俺たちのいた世界か……?」
この星は、俺が思い描いていた姿形をしていない。
あまりに奇妙な景色に目を疑って絶句してしまった。
ふわりと宙へ浮かんだシンは俺の肩に手を添えて、耳元で囁く。
「天球儀の杖で見た星の形とはまるで違うだろう? この世界は片割れを失って、《《半球》》になっている」
「片割れ……」俺は言葉を繰り返す。
確かにこの星は片割れを失っている。
巨大な刃物で切り落とされたように、星の北半球がごっそりと消えていた。その星の断面に中心核は見えず、水を張った杯のように海が断面を覆い、そのまま南半球まで海面が包んでいる。
杯の水面には大陸が浮かんでおり、まだ夜に包まれた闇の中にあって延焼を続けるマハルドヮグ山脈と麓の文化圏に灯石の光が埋み火のように小さな光を灯していた。薄暗い前線の荒地は、ここから見れば月の模様に似ていた。
――星が半分しかないなんて、悪い冗談みたいだ。
昔聞いたことがある『平面説』に似ているが、外殻は球体で構成されているため少し異なる姿だ。この星の姿は何なのだろう。……そう疑う俺の内心を見透かしたように、シンは続けた。
「これは言わば、『渾天説』に乗っ取った構造だ。世界は卵の殻のような結界によって包まれ、海と空が大陸を囲んでいる。……どうだい? 君が生きていた世界と比べて陳腐だろう?」
陳腐……シンは自らが創り上げた世界をそう評した。確かに目の前に浮かぶ天体の有り様は強烈な違和感を伴うもので、本来あるべき姿ではないと感じた。閉じられた世界……不完全な世界……。
「どうして、こんな形に……失った片割れってなんだ……?」
「ときに人が『神』と呼ぶもの。『龍』と呼ぶもの。『星』と呼ぶもの。
私達は世界を循環させる三柱だ。真と理と形。この三つによって成り立っている……けれど――」
シンの言葉が切なく途切れる。少年は寄るべない迷子のように目を伏せて星を見つめていた。
「―― 私のせいで龍は失われ、星の半分も消えた。この世界はいずれ壊れる運命にある……」
「つまり、こういうことか」俺は現状を理解するため言葉を重ねる。「真と理と形……それぞれが世界を循環させるために不可欠な要素で、今この世界が不完全なのは龍が討伐されてしまったから。そういうことだな?」
シンは頷く。
「真の神。理の龍……。そして形の星……」
真理の半分を失い、星は欠けてしまった。
「なぜ六百年間の争いを止めないのか。これが答えだ」
俺は苦々しい思いで外界を眺める。
きっと初めこそ神と龍は人間たちを愛していたに違いない。獣人、魔人、賢人の娘を愛でるように楽園を創り上げたのだろう。
しかし、人類が数を増やし、その中から混血が生まれ、さらには翼人が現れた。天界を目指し塔を築き始めた人類に龍が殺された。
「翼人の過ちによって世界は理不尽が罷り通る地獄になった。傷心の神様は人類を見捨てて、真実は隠されたというわけか」
俺の言葉にシンが続ける。
「真の神と理の龍が合わさって真理となる。
真理とは円だ。どちらかを欠けば形を維持することができない。私は空と海を閉じ込めることで星の崩壊を留めたが、大陸は逃げ場のない戦場となった。
神を騙る愚かな翼人と、迫害からの復讐に燃える龍人。争いは災禍の渦となり……私は黄昏へ向かう世界をただ傍観し続けている……」
「こんなことになって、人が憎いか」俺は問う。
「そうだな……龍を殺す野蛮な存在となってしまった。もはや愛想が尽きたよ」
「だから傍観するのか」
「いずれにしろ龍がいなければ星の修復は叶わない。この世界は破滅に向かう運命しかない」
「だったら、何で継承者なんてものがある」




