168話 炁
「ウツロは一人の人間なのさ」
ザルマカシムに代わり、彼らの疑問に応えたのはガントールである。
スークレイの肩に寄りかかり、アーミラを眺めながら言う。
「……そんな、まさか……。ウツロは二百年も生きてることになる。それに中は空っぽだ。首が無くても平気にしてたじゃないか」
「それでも彼奴は二百年生きとる」オロルが返答を引き継ぐ。「身体がないのも当然じゃ。別の世界から魂だけを召喚された客人じゃしのぅ」
「ますますわからない……何者なんだ……」
勇名達は肩を竦めて困惑した。
「見ていればわかるさ」
ザルマカシムは訳知り顔で会話を切り上げてしまう。勇名達は食い下がろうとしたが、陣の前に立つアーミラが目を閉じて集中しているのが見えたので騒ぐのは自重した。
まもなく詠唱が始まる。
我が名はラヴェル・ゼレ・アルミリア。
そして、アーミラ・アウロラである。
翼を持ち、爾して記憶を失くした娘也。
宿痾の首と無辜の躰を持つ娘也。
この星に満ちる炁よ、
青生生魂に宿る気高き御魂は世界に応えた。
海岳の恩義があらば、
異界の霊素に相応き肉体を此者に与え給え。
滔々《とうとう》と湧き出る清水のようにアーミラの声は最奥に澱みなく響いた。
水を張った床面に刻まれた陣は血が巡るが如く輝きはじめ、一息の間に全域が青く発光する。書き替えを行なった術式は一先ずは問題なく発動した。
アーミラは密かに緊張の息を細く吐き出し、背筋を伸ばしたままウツロを見守る。火を熾すことは簡単でも、火を制御することは難しい。魔術陣が走り出してしまえば術者は一層神経を尖らせる。異界との門を繋ぎ、ウツロの受肉を行うのは禁忌に値する高度な術だが、マーロゥが揃えた日緋色金などの触媒によって、滞りなく魔力が巡っている。
ウツロが無事体を手に入れることができるかどうかは、アーミラの制御に掛かっていた。
変化に気付いたオロルが目を細める。
陣の中央に据えられたウツロの鎧が、脆く変質して崩れていくのが見えたのだ。
――まずは崩壊……。
アーミラは己に言い聞かせるように念じ、術の経過、変化が意図したものであると見極め心を落ち着かせる。わかっていても、喪失の恐怖が脳裏に過ぎる。
マーロゥの構築した崩壊術式を参考にしたウツロの分解。青生生魂に定着している霊素を一度引き剥がすことで、術式は次の段階へ進む。
鎧は皆が見守る中で静かに魂を失い、物言わぬ残骸となった。もう後戻りはできない。
――再構築!
アーミラの眼差しに熱が籠る。その様子を後ろから見守っていたセリナとザルマカシムは倣うように両手を組んで胸元に寄せ、賦活の念を込めた。
魂は宙へ。
魄は地へ。
霊素を失い本当の意味で虚となった鎧は脆く崩れて砂鉄の山となる。虚無の微風に塵が舞うと同時にウツロの気配は消え去り、床の水溜りに波紋が広がる。追いかけるように次の術式が輝き出した。
このとき、ウツロ――正確には慧――の意識は遥か上空、天界にあった。
❖
遠い昔、翼人が神の領域を目指し、今日の戦役にまで続くこととなった最初の火種。天上の世界に辿り着くために建設された塔は見る影もなく土中に沈められ、その高みに辿り着いた者はいない。井上慧は最初で最後の一人となった。
――知らない場所に飛ばされた俺は、ここはどこかと季節外れの雪原を見渡す。
積雪によって白く覆われた地面を脚で払うと、雪は抵抗なく風に揺蕩い、渦を描きながら消える。これは雪ではなく水蒸気の煙……つまりこの景色は雲海……。
視界の晴れた足元に床は敷かれておらず、それどころか俺の身体も膝下から先が透けてしまっていることに気付いた。
雲と脚先は渾然一体となって溶け合い、俺の全身はぼんやりとした白い靄のようなもので構成されていることに気付く。
俺は己の手を見つめた。足と同様に透けて見えるが、馴染みのある籠手に覆われた掌は意のままに動いた。……どうやらアーミラの術式によって魂と鎧が分離しているのだろう。いわばこの姿は仮初めのものと仮定できた。透けた手の向こう側に、門扉を見つける。
俺は霊体となったことを理解し、何故ここにいるのかを悟った。
アーミラの禁忌の魔術陣に介入した誰かが、俺をここへ招いたのだ。
そんな芸当、できる者がいるなら超常の存在だろう。心当たりはある。
――あいつが俺を呼んでるのか……?
俺の精神世界に棲む冠角の幼い娘……名を『理』と言っていた。きっと彼女が門扉の向こうにいるのだろう。
雲を敷いた床と澄み渡る成層圏の空……唯一の人工物である荘厳な門扉は横幅およそ三十振。二本の円柱がどっしりと雲海に屹立して、全高は見上げるほどに高く、穹窿構造で上部が繋がっている。装飾の意匠は三女神に授けられる神器と似通っており、鈍く落ち着きのある光沢は日緋色金のそれである。待ち受ける者が何であるか、予感はほとんど確信に変わっていた。
奥へ招くように、歩みに合わせて門扉は重苦しい音を立てて隙間を作り、通り抜ける頃には人一人が通過するのに十分な幅となった。向こうではやはり幼い子供の人影が見え……コトワリとはとてもよく似た別人が後ろに手を組んでこちらを見つめている。
――角がない……。
出鼻を挫かれて僅かに狼狽え、緊張を高めた。
以前、セリナが語った言葉を思い出す。
『たしか……小さな女の子だった。でも、ただの子供じゃない気がした。――角? ……あったら忘れなそうだけど、思い出せないや。』
――セリナを転生させた奴か……。
そんな奴が俺を招いたとなると目的が見えなくなった。
妹を死へ誘うような怪しい輩だ。害意を持っている可能性を訝しむが、だとしたら問答無用でこちらに襲いかかるはず。こうして待ち構えているのは対話の意思表示に思えた。
警戒しながらも俺は歩みを止めず、導かれるまま門を潜ると神と思しき存在に会釈をした。雲と同化している俺の姿を果たして目に捉えているのか、こちらを見つめる幼子からの反応はない。
神前の作法がわからないので静かに言葉を待つ。
その存在が放つ神聖な気配は後光すら見える。
「鎧姿が板に付いているね」
神は一言目にそう言った。
意図を掴みかねて戸惑っていると、幼さの残る小さな指を突きつけて指摘する。
「物みたいにじっとしていては疲れるだろう」
その言葉を聞いて、微かな気怠さを覚える。試しに重心をずらして片足を休めてみると体が落ち着くのがわかった。何とも言えないこの感覚は、久しく失っていた疲労というものだと思い出す。
次に神の指は俺の顔に向けられた。
「まばたきの仕方すら忘れている」
指摘と同時に視界が一瞬暗転した。立て続けにすばやく明滅して俺は後退る。痛みはない。
「これは……」
一度目の暗点は瞼が眼球を潤すための不随意な開閉運動であり、その後の素早い明滅は驚きに目を瞬かせたことによるものだ。神の言葉によって、封印されていた体感覚を取り戻しているように思えた。
不自由を感じていなかった聴覚さえ、これまで栓が詰まっていたのかと思わされるほど清澄となり、視界は曇り硝子を外したような鮮明さで世界を映す。青く澄み渡るが故に黒く果てしない成層圏の空と、絹のように白く輝く雲海の地平線が眩しい。
下界よりも一足先に夜の終わりが迫りつつあることを知って、雲海を突き抜ける光芒に手を翳す。眼球の奥、光量を調節する虹彩が絞られるのがわかる。
かざしている俺の腕にも変化はあった。いつの間にか籠手は取り払われており、鎧姿だった体は人の姿に変わっていた。




