166話 邪魔はしないさ……指示をくれ
アーミラは泣き腫らした目を親指で拭い、勇名の者達に支えられながら立ち上がる。痙攣する喉から、それでも言葉を発した。ここでやるべきことがあるのだ。
「う、ウツロ、さんを……っ、じん……陣、にっ……」
ウツロを魔術陣に。そう指示するアーミラの健気さは男達の胸に切なく迫るものがある。言う通りにしてやりたい気持ちはあるが、何をするつもりなのかわからない。この場にいる誰よりも多くを失っている彼女が、自棄になってないかだけが心配だった。兄であるハラヴァンの意志を継いで、もう一波乱起こるのは勘弁したい。
彼等は口を噤み、伺い立てるようにセリナの方へ視線を向けた。
「何をするつもりなの?」
男達を代弁してセリナが問いかける。敢えて寄り添わず距離を保つさっぱりとした態度である。
アーミラも気丈に振る舞いたいのだが、そう思えば思うほどに肺が引き攣って涙が溢れる。
「う、ウツロ、さんっ、……も、戻して……、あげたいんです……」
その言葉にセリナは深く頷き、男達にも聞こえたかと首を回す。アーミラの意思を理解した勇名達は諾々と従い、預かっていたウツロの面甲と背甲、そして頭巾に包んでいた朽ちた青生生魂の砂鉄を陣に集めた。
月と太陽の間に描かれた中心の円にウツロの残骸が置かれると、アーミラは熱心に魔術陣の加筆を行う。床を見つめながらの作業でどうしても洟が垂れてしまうので勇名達には泣き収まっていないように映っていたが、アーミラの涙は止まっており、気持ちの整理は付かずとも意識の隅に追いやるだけの気力が残っていた。
なによりアーミラは、刻まれた陣を読み解き術式を理解したときには驚きと共に没頭し、失意の無念は吹き飛んでいた。
――こんなものを……本当に使おうとしていたの……?
一人の魔術師として、矜持を持ってマーロゥの遺した陣と向き合う。
戦役を暗躍し緻密に研鑽を重ねて構築したこの魔術陣は、文明の崩壊と全人類の霊素消滅を目的とした世界収束の禁忌と見て間違いない。
対象範囲がとにかく広域で、大陸全土……この星そのものに効果を及ぼしかねない代物だとわかる。術式を発動してしまえば、言葉も道具も、文明の痕跡さえも灰燼に帰し、世界から人類が消え去っていただろう。
とはいえ星全域に影響を及ぼそうなどと、到底実現不可能なものに思える。だが、マーロゥはいくつかの問題点を解決するように都合をつけていた。
例えば、この術式が禁術である以上、制御できない代物となるはずだ。この問題は陣の外縁に設置した触媒を見れば解決できるとわかる。マーロゥは事前に調達した神器の欠片を用いるつもりだったのだ。
では、発動のために必要となる膨大な魔力、および魔鉱石はどこから調達するのか。この問題も解決済みである。陣を展開する場所はマハルドヮグ山脈であり、山頂に座す神殿には大量の魔鉱石が税として蓄えられていた。これを使えばいい。
到底実現できるものではないと一笑に付してしまう類いの禁忌の術式。彼の破滅願望を体現した術式は、蚩尤憎しの執念によって微に入り細を穿つ完成度だった。アーミラの目から見ても綻びはない。見せ掛けだけの脅しではなく、本当に使用可能なのだ。
とても正気の沙汰では成し得ない。マーロゥがどれ程の心血を注いで世界と立ち向かっていたのか。アーミラは、兄の孤独と苦悩の一端を垣間見た気がした。
――もし発動していたら世界は全く別の様相を呈していたはず……。
だからこそ、彼の自決には心がついて行けていない。アーミラはそれが申し訳なかった。
―― マーロゥは成し遂げるところまで来ていた……。手に入れかけた悲願を手放し、私に譲った。
譲り受けた世界に対して、生き残った者は責任を全うしなくてはならない。
アーミラの覚悟は固かった。
月と太陽。
破壊と再生。
風化と不易の二律背反を抱えたこの陣は、マーロゥとリーリウスの消滅に一部の術式が消費されている。だがアーミラが必要としているのは陣の再生の方、未だ使用されていない術式の方である。
対象をウツロのみに限定し、アーミラはせっせと術式を書き換えていった。
不足している部分には切り出しの刃で床に傷をつけて線を引き、不必要な箇所は靴底で擦って掻き消した。その作業に迷いはなく、黙々と行なっている姿をセリナと勇名達は見守っていた。
最奥の動きを見咎めたザルマカシムが人集りに合流して、近くにいた仲間に声をかける。
「アーミラは何する気だ?」
「どうやら鎧の魔導具を治すらしい」
勇名の返答は気楽なもので、輪の中心で忙しくしているアーミラの熱が届いていない。ウツロの存在が何であるかなど全く知らない様子……事実、彼等はウツロが一人の人間であることを知らないのだ。
父を倒し、母と兄を目の前で失った……そんな離別を経験したばかりのアーミラが、この最奥でウツロのために陣を描く。
その行動の重みをザルマカシムは多少なり理解しているつもりだった。
「愛しているのか……」ザルマカシムは誰にも聞こえぬ声で呟き、歩み出る。
一族の鎖を断ち切り、影ながらに継承者達を支え続けた男……それこそがウツロである。共に過ごしたアーミラが彼をどう思っているのか察するに難くない。
セリナは陣の外縁に近付くザルマカシムを見つめた。推し量るような目をしていた。兄の復活を妨害する者を立ち入らせる気は無いようだ。
「邪魔はしないさ……指示をくれ」
その一言でセリナの態度は軟化する。
汚れた白衣の袖を捲って、ザルマカシムは加勢した。
勇名達の見守る中、ウツロの正体を知る三人は暗黙の了解で通じ合い、魔術陣の書き換えを進める。アーミラの頭の中にある式を再現するために回路の整理も行った。その指示は晦渋で、魔呪術の覚えがあるザルマカシムでさえも指示の意味を把握できない場面があった。額に汗を滲ませながらなんとか応える。
苦労の末完成した頃には流石に疲れの限界が来て、ザルマカシムはしゃがみ込んだ。それきり立ち上がる気力も無くなっていた。
「これで行けるか?」喉の渇きに唾を飲み込み、ザルマカシムは床にへたり込んでアーミラを見上げる。
「はい。……あとは私に任せてください」
返答に頷き、ザルマカシムは尻が汚れることも気にせず寛いだ。あとは見守るのみという段にあって、オロルとガントールが勇名に支えられながら合流してきた。スークレイやカムロも歩けるほどには回復したようで、彼女の姿を認めると疲れも忘れて飛び上がり、湿った裾を手で払った。
カムロは初めて踏み入る最奥をゆっくりと見渡して、ことの経緯を推し量る。床に転がったままの翼人の遺体と、身柄を拘束されたセラエーナ。そして無事仕事を終えたザルマカシムを見つけて、幾分か視線を和らげた。
「ラヴェル一族は」
「王妃カルミナは亡くなりました。最奥の隠し子であるセラエーナは降伏し、天帝リーリウスはハラヴァンと共に消滅……骨も残っていません」
「そうですか」カムロは複雑な顔をしていた。
信仰と営みの地盤は、これで全て失われた。神殿での地位を無くした二人は、明日からどのように生きるべきか、身の振り方を考えているのだろう。
一つ確実なことは、幸いにも孤独ではないという希望があることだ。カムロは意思の強そうな瞳でザルマカシムを見つめ、言葉を続けた。
「これからも頼りにしていますよ。ザルマ」
「任せてください……!」ザルマカシムは力強く応える。
一方、陣の側でも再会を喜ぶ三人がいた。
ガントール、アーミラ、オロルの当代継承者を務めた三人である。
「無事じゃったか」
オロルは相変わらずの不敵な笑み。しかしその金色の瞳はどこか誇らしげにアーミラを見上げている。




