161話 馴致領域
「……解呪は、破壊するにはどうしたらいいでしょうか……?」
「破壊はしません。同等の結界を展開させて馴致領域を形成します」
アーミラは言いながらに実践し、すでに鉄格子を掴んでいた。
拒んでいるはずの結界はアーミラの腕を避けるように円形の風穴を開け、そこだけが無防備に空いている。これこそが結界同士を馴染ませた馴致領域である。
さも難しくないことのように言っているが、他者の構築した術式と己の術式を馴染ませる芸当は並外れた技である。呪術も魔術も、全て戦うために存在しているの以上、必ずどちらかが上書きされるように考えるのが常識。
ガラハウもオシュトルも、調和させるという発想がなかった。
この馴致領域は互いを喰い合う呪血のような対消滅ではなく、双方の術式が一つに混じり合うことによって形成される。鉄格子の外にいながら結界に取り込まれることで内部への侵入を可能としたのである。
ガラハウは言葉にこそ出さなかったが、表情はありありと語っていた。――全ての血を持つ混血……彼女がもしも神殿に敵対せずに禅譲していれば、誰も敵う者はいなかっただろう。
柔軟な発想と巧みな術解釈。そこに生まれ持った才覚が合わさって、アーミラは無二の実力を発揮している。畏れを抱くガラハウに一つ訂正するならば、アーミラは神殿から逃げ出したからこそ才を手に入れることができたということである。艱難辛苦によって磨かれたものなのだ。
ともあれ、一行は結界を潜り抜けて鉄格子を開き、奥之院に踏み入った。
勇名達は通路に伏せっている同胞を膝に抱えて呼吸を確かめた。命に別状はなく、ただ眠らされているだけだと知って胸を撫で下ろす。
「水の臭いに呪血の残穢、僅かに香木……これはカムロ隊長のものだな」
この場所に残る香りを嗅ぎ分け、ザルマカシムはここにハラヴァンがいたことを確信する。皆を眠らせたのは香木に違いないが、持ち主であるはずのカムロまで眠っているのなら悪用されたに違いなかった。そんなことをする人間に心当たりは一人しかいない。
「最奥に居るな」
ザルマカシムは呟いて推論を立てる。
ハラヴァンが奇襲に参加せず潜伏している理由は暗殺か。リーリウスにはウツロを差し向け、その隙に最奥に潜む翼人を根絶やしにする――なるほど業腹だが、権謀術数を性癖とするハラヴァンであればそう動くことは想像に難くない。それだけの恨みがあるのだろうし、確殺する手段として効果的だろう。
しかし、ザルマカシムの不安は拭えない。ハラヴァンの張り巡らせた奸計という厖大な蜘蛛の巣が、神殿のみならず龍人さえも絡め取っているような、空恐ろしい予感があった。あの男は常に本心を隠していて油断ならない……。
「ガントールさん……!? スークレイさんまで……!」
通路の曲がり角に進んだアーミラは、そこに倒れている仲間を見つけて驚く。駆けつけたセリナも目を丸くして声を荒げた。
「オロルもいるじゃんか……!」
傷だらけの体、纏う衣服も赤黒い血染みに汚れているがこの傷はウツロとの戦闘に負ったもの。やはり眠らされているだけだった。
「二人にはこれを」そう言ってザルマカシムはアーミラを呼び、心像灯火を差し出した。「火に直接触るなよ。そっと戻してやるだけでいい」
ガントールとオロルの心臓の火を手渡されたアーミラは、掌に魔力の受け皿を作って灯火を運ぶ。セリナが見守る中、火が消えてしまうことがないように眠っている二人に火を注いだ。おそらくはこれで一安心といったところか。
「……ザ、ルマ……?」カムロが睡醒から潤んだ目を開く。「私は……」
前後不覚となったカムロは状況を思い出せないようだった。見慣れない壁と天井に視線を忙しくしている。
「ここは奥之院です。神殿での蚩尤との戦いから避難していたはずですが、隊長は眠らされていました」
誰にやられたのかとザルマカシムは肩を掴み、カムロは天帝侍医の男だと答えた。
「やはりそうか」そう呟いて、ザルマカシムの手に力が籠る。
「その男がどうしたんです?」
まだ立ち上がる力が無いカムロは上目遣いに首を傾げた。天帝侍医と近衛副隊長の間柄になにか疚しいことでもあるのかと、信頼の眼差しが刺さる。
躊躇う沈黙の後、覚悟を決めてザルマカシムは白状した。
「あいつの正体はハラヴァン……禍人領の将だ」
カムロは、ずっと騙されていたことに一瞬だけ目を見開いたが、すぐに伏せた。
信頼していた部下は、副隊長の座に就きながら裏では敵対する禍人と手を組んでいる……そんな裏切りにカムロは薄々気付いていたのだ。
「あなた達は知っていたのですか?」
「まさか、先ほど知ったばかりですよ」
部下達が一様に頭を振るのを見て、カムロは少しだけ安堵したように頷いた。
「……副隊長が時折に姿を見せずとも、それは奥之院での業務のためだろうと追求はしませんでした。ですが心のどこかで疑問に思っていました。どこで怠けているのか。私の下では不満か、と。
前線で武勲を立てたこの正義漢が、どうして神殿に仇なす者と手を組むのか。その責任が私の不甲斐なさにあるのではないかと思えば……自分が情けなかった」
「そんなこと――」
ザルマカシムは否定しようと声を発しかけたが、カムロは続ける。
「……今ならば解ります」ザルマカシムの頤に手を添えて髭を撫でる。「正しさを求めているからこそ、あなたは間者となったのですね」
「カムロ隊長……」
帝の悪事を知り、ザルマカシムは敢えて禍人と繋がった。
その選択は困難を極めただろう。近衛の激務を日々こなしながら、密かに翼人の闇を暴き、真の戦争解決の方途を模索した。たった一人の間諜として表と裏を行き来する綱渡り……利他と正義の信念がなければここまで勤勉に努めることはできない。
「あなたを信じていてよかった。神殿は壊れてしまいましたが、これも必要なことなのでしょう」
労うようにカムロが微笑んで見せると、ザルマカシムは頬を赤らめ、ぐっと唇を引き結んで見つめ返した。眩しさに仰け反りそうな体を踏ん張っている。
武勲から『スペル』の勇名を授かり近衛入隊を果たした時、この神殿は知の集積する気高い城だった。そして男は、隊長の座に君臨するうら若き彼女に憧れたのである。
ザルマカシムの目には、カムロが山の頂に咲く一輪の花のように見えたのだ。
「カムロ隊長、私は……」
密かに想い続けていた感情が、言葉となって溢れそうになるのを堪えた。
「いや、俺は……っ――」震える喉から漏れ出す言葉をもう一度抑え込み、ザルマカシムはぶるぶると首を振ると気を取り直して真っ直ぐに見つめる。「――俺達が、全部終わらせてきます。だから、待っていてください」
決然とした眼差しをして鼻息をふんと吹き、通路の壁際まで抱きかかえたカムロを運ぶとそっと座らせる。気恥ずかしそうにして言葉が出てこないカムロに向かってもう一度視線を向け、力強く頷くと振り向かずに最奥へ歩き出した。
通り過ぎて先へ進む男の巨体を眺め、セリナは口の端を綻ばせた。
魔人種の女と獣人種の男……この世界の事情を知り始めたばかりのセリナにもこればかりは説明要らずである。
「行きましょう」
アーミラに促されてザルマカシムの後に続く。
最奥に待つハラヴァンがどう出るか、いずれにしろ夜明けは近い。




