160話 ハラヴァンを見てないか?
神殿の熱狂を冷ます夜風にウツロの鎧は薄氷の音を立てる。
禍人領からここまで、幾つもの死線を乗り越え、その度に傷付いた青生生魂は相当に無理をしたのだろう。今やその体は身動ぎ一つで節々が欠け落ちて、炭化した断面は黒曜石に似た劈開が覗いている。
二百年戦い続けた体が朽ちようとしていた。
アーミラとセリナは、ウツロを助けるために二人がかりで鎧の頭部と襟、そしておそらくは魂の核が存在するであろう先代の文字が刻まれている胸部の一枚板を慎重に取り外してそれぞれを抱え持った。残された四肢はその役目を全うして砂の山となり、アーミラはそれらの残骸も頭巾に包んで回収した。
「これってなんて書いてあるの?」
血族の戦いに終止符を打ち、どこか消沈の面持ちをしているアーミラに対し、セリナは努めて明るく、それとなく気遣うように問いかける。
複雑な曲面によって構成された板金を抱えて、普段は隠れてしまう内側に刻まれた一文を視線で示す。
「……『深淵を覗く痴れ者、魂は頂く』」アーミラは気丈に振る舞って文字を読み上げる。
「物騒だな」セリナは戯けながら、もう面倒事はこりごりだという顔をした。「覗き込んでこの文字を見つけたら怖いだろうね」
「ウツロさんを分解しようとする者に向けた先代の脅し文句かも知れません」
「なるほど」
セリナは納得したが、推理を開陳したアーミラの方が気がかりに眉を顰めて、もう一度文字を観察する。
先代―― デレシス・ラルトカンテ・テティラクス――の手記を読み込んだアーミラには違和感があった。板金に刻むのと紙に書くのでは勝手も違うだろうが、ここに残された文字と手記の文字の特徴が全くの別人である。それになにより、手記から読み取った先代の人物像はもっと即物的で……ウツロを分解出来ないように細工こそすれ、このような挑発的な文言を刻む遊び心は、らしくないように思えたのだ。
思考をさらに深く巡らせようとした丁度そのとき、ザルマカシムが血相を悪くして人探しをしていた。
「なあセリナ、ハラヴァンを見てないか?」
「そういえば居ないな、あいつ。一緒に来たんじゃないの?」
「いや、別行動だ」
セリナの表情が鋭くなる。横で会話を聞いていたアーミラも状況を把握しはじめる。ハラヴァンとは神殿で合流するはずだった者の名前だろう。
「どこかでくたばったか」
ザルマカシムの言葉にセリナは鼻で笑って否定した。
「まさか」
「だよな……。どこかにはいるんだ……」
「嫌な予感がしてきた……ハラヴァンを捜すよ」
休む間もなく三人は駆け出す。疲弊した脚は重く、衣服は泥に塗れたように体にのしかかる。そのうえウツロの残骸まで抱えるのは荷物だったが、高台で待っていた勇名の仲間が荷運びを請負った。
「地下の合流地点は? そこで待ってるんじゃ無いの?」
先を歩くセリナの問いにザルマカシムが応える。
「俺とアーミラ様はそこを経由して来た。あいつはいなかったぞ」
「様はやめてください。アーミラでいいです」
アーミラは敬称を付けて名を呼ばれることの意味合いが変わったような気がして、つい横から割り込んでしまう。女神扱いも姫扱いもお断りである。
それを聞いた勇名達の口元に笑みが浮かぶ。視線がザルマカシムに向いていた。
「……なんだ?」
笑みの理由は単純なものだった。
ザルマカシム本人が近衛隊の部下――勇名の仲間に向けて同じことを言っていたのだ。『副隊長はやめろ』と。立場を変えて同じやり取りが繰り返された光景に、つい気を緩めて笑ったのだ。
「……まだ全部が終わったわけじゃないんだ。気を引き締めろよ」
眉を怒らせたザルマカシムも目元に笑みが浮かんでいた。本気で叱っているわけではない。
次女継承に、災禍の娘。
近衛副隊長であり間者。
そして近衛の部下……共に苦難を乗り越えた者達は肩書きを捨て、敵味方の垣根すら超えて一つになった。
もうすぐ夜が明ける。それは単に朝が来るということでは無い。平和の時代がすぐそこまで来ているということだ。
その想いを共有した彼らは、気持ちを新たにハラヴァンという名の龍人を探すため、奥之院へ向かう。
❖
本殿の地下へ続く通路に潜り込んだアーミラ達は、呪血に染められた階段を降りて奥之院へ進んだ。
「あれは……!?」
先導する勇名の一人が異変に気付き、慌てた様子で駆け出した。ばしゃばしゃと足元の水溜りが跳ねる。その飛沫は血混じりの水であった。
「あっ、おい!」
呼び止める声にも振り向かずに男は先を行き、固く閉じられた鉄格子にぶつかって立ち止まる。アーミラ達が追いつき、通路の様子を一目窺って取り乱した理由を知る。鉄格子の向こうにカムロと近衛数人が倒れていた。
「地下に逃げたせいで呪血にやられちまったのか……」勇名の誰かが口惜しそうに言うが、そうではない。
「……白衣が染まってない。溺れたわけじゃねぇ」
ザルマカシムの言葉を聞いて、アーミラは壁面を見つめた。
鉄格子を境にして赤と黒が綺麗に塗り分けられていることに気付く。
「結界ですね……少し変わった仕組みのようです」
「それなら」と、腕に覚えのある勇名が鉄格子に手を伸ばす。助け出すには結界を解いて鉄格子を開く必要があるからだ。だがしかし、複雑に織り込まれた回路を前に勇名の男は苦戦した。呪血の侵食すら拒むほどの強固な結界であるため無理もなかった。
「ガラハウ! なにもたもたやってんだ!!」
「解けねぇんだよ……! オシュトル、手伝ってくれ!」
二人がかりで解呪に挑む勇名の傍ら、アーミラも鉄格子に触れて術式を指先に感じていた。そしてこの術式の特性を見破り、こんな方法があるのかと心の中で唸った。――なるほど。
「どうやらこれは、力押しが通用しないみたいです」
アーミラは結界に沈ませた指先をぱちりと鳴らし、容易く波紋を生じさせる。ガラハウとオシュトルからすれば、指先が結界の中に侵入できていることが驚きだった。
「どうやって……!?」
「式の複雑さに意識が向いてしまいますが、構築された結界は単純です。
こちらの持つ魔力、呪力が微弱であるほど結界も弱まり、強力なほど堅牢に拒むみたいですね」
その証拠に、とアーミラは勇名の一人に持たせていたウツロの頭部を借りて結界に沈ませる。板金に備わる魔力がないため抵抗なく結界を素通りした。鉄格子を叩いてがしゃりと音を立てる。
解呪に挑む二人はアーミラに倣い魔力をあえて絞り、指の先を沈ませるところまで成功した。要するにこの結界は鏡のようなもの。加わる力に比例し、呪血の洪水に対しても同等の反射によって侵入を拒んだ。反対に、力を抜いてゆっくりと優しく触れれば多少なり侵入することができる。
オシュトルと呼ばれた男は迂闊にも手柄を急ぎ、沈ませた指先から術式の破壊を試みたが、その瞬間に光が爆ぜて指を弾き出された。痛みに引っ込めた己の手が無事か確認し、危うく手首から先が消し飛ぶところだったと青褪める。
この世界の人間には霊素――つまり魂――に魔呪術の素が宿っているため、指先を浸すことはできても、結界を通過することができない。どうにかして道を開く必要がある。
ガラハウが教えを乞うようにアーミラを見つめた。




