158話 審判の日が来ましたよ
アーミラは天稟の才能を発揮し、構えた魔槍と光矢を蚩尤に向けて一斉射出した。
血腥い巨体が羽を散らし、穿つ魔術によって重く濡れた翼が、神々しかった巨体が、見る間に挽き肉に変わる。赤黒い爆炎の向こうで砲撃に弄ばれた人面の梟が喚きのたうち回っていた。
「あぁ! 口惜しい!! 口惜しいぞアルミリア!」
「……その名は前線で捨てました。あなたが捨てさせたようなものですよ」
「あぁ! あああっ!! 後少しだった!!! アルミリア……、アルミリア……!」
砲撃が止んだ頃には、蚩尤の頭上に飾られていた冠も砕け散り、天帝の威光は完膚なきまでに消え失せていた。肉塊の山から這い出てきたのは、我が身への痛みと憐憫に身を悶えさせる老人である。
リーリウスは外典祭祀の呪血に魂を蝕まれ、アーミラによって肉体を叩きのめされて正気すら失っていた。これまでに浴してきた権益による隆盛の日々が、この男を惰弱な精神に育てたのだろう。
「いやだ……! なぜ私がこんな目に……やめろ……やめろぉっ!!」
退行障害だ。
敵前にも構わず駄々をこねる老人の姿を見下ろすアーミラは、憤怒と粛正の衝動がどろどろの溶岩となって胸の奥から噴き出すのを感じた。
「やめろ、そんな目で見るな……私を見るなぁ!!」
とどめを刺すのは容易いが――喚くリーリウスを前にアーミラは、ぎり、と奥歯を噛み締める。
私がこれまで受けてきた理不尽と比べればリーリウスへの仕打ちはまだまだ手緩い。翼人の我儘に振り回されて、どれだけの血が、命が、零れ落ちただろうか。そう思えば意識の暗がりから《《修羅》》という蛇が鎌首を擡げるのを感じた。
殺してやりたい。
それほどまでに憎かった。
この怒りを代弁するかのように呪血は老人の体に痣を浮かび上がらせた。「こいつを殺せ」と語りかけている……アーミラにはそう思えた。
この呪血は奥之院で流れた血だ。
逃げ出すことの叶わなかった、同胞の血なのだ。
ウツロがアーミラの肩に手を乗せる。
「……『怒りに囚われてはいけない』……そう言いたいんですか……」
――……いや、わからない。こいつを殺して心が晴れるなら俺は止めない。止める立場にない。
此奴は裁かれるべき人間だからな。と、ウツロは言う。
「ならこの手は何です」アーミラは肩に乗せられた手を見る。
――これは……俺の我儘だ。アーミラにはもう、力を使ってほしくない。だが……『どうしても』というのなら俺は止めない。こいつで最後だ。存分にやってくれ。鬱憤を晴らす修羅となって、復讐を果たして、それでお終いにしよう。
ウツロはそう言って、アーミラの肩から手を離した。復讐を促すことも止めることもせずに、委ねたのだ。
「どうしても……殺してやりたい……。この怒りは私だけのものじゃないんです。お師様の、同胞達の怒りが……私にとどめを刺せと言っているんです……」
アーミラは杖がわりの槍を握って、白痴となったリーリウスを睨む。
内に宿る殺意が、この体を突き動かすだろうと思っていた。……だが、体は動いてくれなかった。
「……ずるいですよ」
アーミラは血に染まった石畳に槍を放って、切り出しも手放した。
「私は……絶望していません。
私の帰りを……待ってくれる人達がいます……」
アーミラは、託された願いを叶えるような《《器》》にはなれなかった。
リーリウスにとどめを刺そうとしたとき、脳裏に浮かんだのはアダンとシーナの温かな笑顔だった。胸を張って帰るには――恥じない生き方を選ばなければいけない。
そしてそれができると、ウツロは信じてくれたのだろう。
武器を捨てた際に生じた音にリーリウスは驚き、気を失った。
アーミラが手を汚さずとも、この老人は呪血に蝕まれて命を落とすこととなる。
全てに決着がついたのだと皆が思ったその時、ザルマカシムは漸くいるはずの者の不在に気付く。
❖
「おやおや……閉じ込められてしまいましたねぇ」
天帝侍医マーロゥは呑気にもそう言った。
場所は奥之院。地上階では最終戦争が繰り広げられていたそのとき、祈りながらに気を失ったカムロが部下達によってここまで担ぎ込まれていた。
階下から立ち昇る腐った水の臭いに顔を顰めながら、それでもこの先に待つ場所が現状最善の避難所になると信じて近衛隊の男達は一段一段確かめるように進み、通路へとたどり着く。
開かれたまま放置されている鉄格子を素通りして駆け抜け、足下に張られた水の飛沫に脚絆が濡れるのも構わず辿り着いた地下回廊には一人の男が待っていた。
訝しげに目を細めて警戒する近衛の男は、不意に背後から掛けてくる大勢の足音に振り向いた。怒涛に迫る呪力の気配……それよりも濃厚な殺意の意志が血の臭いと共に迫っている。
不意に鉄格子が大仰な音を立て、叩きつけるように閉じられた。
先ほど降りてきたばかりの階段からは滝のような濁流が渦を巻きながら流れ込み、鉄格子に押し寄せて再び激しい音を立てた。こちらに迫っていた足音の正体はこの洪水である。
明るいところであれば一目で血だと分かっただろう黒い液体は攻撃性を隠しもせずに暴れ狂い、寄せては返す波が幾度となく鉄格子を揺さぶる。その度にがたがたと衝撃に揺れたが、隙間だらけの格子であるはずなのに稠密で堅牢な壁に阻まれているかの如くこちらには一滴たりとも染み出すことはなかった。
黒い水は水位を上げて天井まで満たすと、波を生み出す隙間を失って勢いを落とす。というよりも、圧が強すぎるために密閉され、勢いが止まって見えるのだ。
明らかに尋常ではない何かが神殿で起こっている……近衛達は地上で繰り広げられているであろう激戦を思い、恐ろしさに息を呑んだ。
そうして、地下回廊に立つ男は「閉じ込められた」と言ったのだった。
「お前はここで何をしている」近衛の男は問う。
「私は奥之院に仕えております。天帝侍医マーロゥ・メイディにございます」
近衛達は互いに顔を見やり、「知っているか?」と伺った。奥之院に出入りができるのは翼人と、近衛隊の隊長と副隊長に限られているはず。……であればこの男は怪しいが、物怖じせず堂々と振る舞う態度には威勢を挫かれてしまう。侍医という肩書きもまた、老齢なリーリウスには有り得る話だった。
「ところで、カムロ隊長はどうされたのですか?」
マーロゥと名乗る男はなんの警戒もせずに近衛隊の者達に歩み寄り、気を失っているカムロの顔を覗き込んだ。頬に添えた指先から治癒の術式を光らせると、目を閉じてぐったりとしていたカムロの意識が回復する。折れた肋骨の痛みに顔を顰めて呻いた。
「どうやら私の仕事のようですね」
「マーロゥ……」
カムロの口から男の名が呼ばれ、男達は警戒を解いた。隊長と知り合いであれば一安心、どうやら奥之院天帝侍医というのは間違いないようだ。……その裏付けができたと早合点したのである。
閉じられた鉄格子の向こう側は床から天井まで血の海に満たされて、波のない液面は磨かれた石壁のように沈黙している。初めからここに通路などなかったかのようだった。
近衛の一人が術式を調べようと近付いた。
「触れれば死にます」
マーロゥは簡単に言って咎める。指を伸ばして触れようとしていた男は慌てて腕を引っ込めた。
「この鉄格子は……あんたが守ってくれたのか?」
「いえ……ここの守護は特別ですよ。最奥に棲む翼人の子が、同胞の呪血を遠ざけているのでしょう……」
なんとも含みのある物言いに近衛の者達は眉を顰める。翼人の子……? 同胞の呪血……?
「つまり、どういう――」
説明を求めた声が途切れ、一人の男が突然気を失って倒れる。
この場に集まった近衛達は仲間の異変に駆け寄る者や、警戒を厳しくする者もいた。反応はそれぞれだったが、最後は皆一様に床に倒れて転がった。
「オーウェン? ジェクトマ……? どうしました……?」まだ意識が朦朧としているカムロは部下の異変に対応が出来ない。「マーロゥ……、私の仲間が……」
「えぇ、倒れましたね」
「アレン、バルロサ……! どうした……? 何が起きてる……!?」
カムロは焦点の合わない目に力を入れてなんとか部下達の顔を観察する。立ちあがろうとしたとき、背後からそっとマーロゥが引き寄せてカムロを仰向けに倒し、無感動な表情で見下ろした。
「無理はしないほうがいいですよ。吸って、吐いて。……そうです。呼吸を繰り返して――」
マーロゥは落ち着かせるような優しい声で囁く。遠のく意識の中、続く言葉を聞いた。
「――よく眠れるでしょう。あなたが作った香木ですよ」
❖
奥之院の暗がりに倒れる白衣の者達。
通路の影には先に運ばれていた長女継承ガントールとその妹スークレイ、三女継承オロルの姿もあった。全員が昏昏と深い眠りについている。
「さて……」
マーロゥは側で眠っているカムロの懐に手を差し入れて弄ると、目当てのものを掴んで取り出す。それは切り落とされたオロルの手首。紫水晶に変質した魔鉱石である。取り上げたそれを掴んだままカムロの頭を避けて立ち上がり、天井を見上げて耳を澄ました。
「上はもう決着ですか……」
神殿の戦闘が落ち着いてきていることを悟ると、足早に通路の奥へ歩き始めた。道すがらガントールのそばに寄り、天秤剣の柄を握ってさらに奥へと進む。
天帝侍医を騙るこの男こそ、禍人を束ねていた知将――ハラヴァンであった。
ハラヴァンは嗾けたウツロとセリナの奇襲には参加せず、ザルマカシムとの合流も反故にして、ひとり奥之院まで潜っていたのである。地下深い常闇の、牢獄にも似た地下通路を迷いなく進み、最奥の扉の前に立つ。
「審判の日が来ましたよ」
扉に向かってそう告げると、分厚い鉄の扉に掛けられている錠を解いた。隙間が生じ、ハラヴァンは手で押し開ける。
通路と地続きの室内は変わり映えのない牢獄然とした殺風景な場所で、長く贅沢な暮らしをしてきた翼人の棲家とは思えない。
室内には、一人の翼人がいた。
やや幼い年頃の背丈をすっと伸ばして、その翼人は静かにハラヴァンに対している。外見は人間というよりも蚩尤に酷似しており、肌を埋め尽くす羽毛に全身を覆われて表情が窺えない。背中から夥しく生える十二対の翼は繭のように肩を包んで、手入れのされていないまま伸び放題の羽が床に引き摺られて茶色く染まっていた。細部に目を凝らせば凝らすほどに異形の化け物であるが、全体の佇まいはまるで純白の長衣を着飾った箱入り娘のようである。
「やぁ、セラエーナ」
ハラヴァンは旧知であるかの如く名を呼んだ。




