157話 稟性の才能
世界を見霽かす全知全能の瞳に見つめられているように思えて、己が重ねた悪事を見透かされることを畏れた蚩尤は僅かながらに後退る。そして未練がましく握りしめていた鎧の残骸が再び温度を上げていることに気付いた。胸の羽毛が焦げることを厭うて、蚩尤は鎧を摘んで確かめる。伝わった熱が巨像の手のひらを柔らかく溶かし始めていた。
「なにを――!」驚く蚩尤の声。
ウツロの胴体を熱していたのは、アーミラの術式だった。
アーミラは自身がなにをするべきか手に取るようにわかっていた。理の当然、物の道理を悟り、明けぬ夜などないと確信している瞳がウツロの鎧と通じ合っている。
「ウツロさん……!」
冷え固まっていたウツロの残骸は、今再び灼熱の溶湯となって蚩尤の手をすり抜け、呪血の海へ落下する。
焼けた黒鉄に触れた呪血は瞬間的に蒸発して激しく煙を吐き出し、同時にウツロの熱を奪っていく。水位を下げていく呪血の海は青生生魂との対消滅ではなく、明らかにウツロに呑み込まれていた。
そこに煙を吐く鏡も転がり込んで一つに溶け合うと、ウツロの鎧が形を取り戻す。
およそ人ひとり分の体積に、神殿を満たしていた呪血の全てを取り込み、鏡は手脚となって鎧の体を構成する。失って久しい面鎧も揃い、炉に落としてしまった斧槍も復元された。
呪血に染まる神殿で、ウツロと蚩尤が対峙する。
両者は無言のまま見つめ合い、どちらともなく距離を詰め、一合を交わした。
蚩尤の吐き出す熱線を躱したウツロはその眼前に縮地で迫り、三女神の顔を寄せ集めた醜悪な仮面の中心に斧槍を突き立てた。僅かに開いた隙間に両手を差し入れると、鎧の内側に溜め込んだ嬰児の怨念を解き放つ。
「むぐ、おおおぉぉぉ……!!」
呑み込んだ呪血は、黒い霧へと変化して、抉じ開けられた仮面の内側へと流れ込む。怨嗟は仮面を蝕み、奥に隠した素顔を焼き尽くしながら目や耳、鼻、もちろん口と、穴という穴から潜っていった。
外典祭祀により自らが生み出した呪血は周り巡って蚩尤の腹に収まり、その恐慌に陥った蚩尤は、埋めていた首を長く伸ばして振り回し、ウツロを振り解いた。
引き剥がされた後も呪血の怨嗟がウツロから噴き出し、一筋の流れとなって蚩尤の口と繋がっていた。
「おおお、おぉ、おぉぉぉ……!」
結局、蚩尤は全てを飲み下した。拒絶反応に腹は痙攣し、羽根に覆われた喉元が絶えず嘔吐きを繰り返し膨らむが、出てくるのは血混じりな唾液ばかり。
ウツロは石畳に転がり、立ち上がると、アーミラを見つめた。
面鎧の真っ暗な眼窩……アーミラは彼の昏い目が好きだった。
――すまなかった。
声が直接アーミラの頭に届く。
―― 『行動で示す』と言いながら、俺は裏切ってしまった。
アーミラは首を振る。
「大切な妹を助けるためだったと知りました。それに、ウツロさんは裏切ってません」
この世界を歪め、裏から手引きする巨魁を明らかにした。ウツロの謀叛は神殿こそ揺るがすものだったが、継承者達を裏切ったわけではない。むしろその逆……。
「あなたのおかげで多くの方達の無念が晴らされたでしょう……わたしもその一人です」
ありがとう。と、アーミラは真摯な瞳でウツロを見つめ、次に蚩尤と対した。
――ガントールとオロルの心像灯火を蚩尤は取り込んでいる。切り離して決着をつけるぞ。
「わかりました……!」
返事を聞き、ウツロは先陣を切って駆け出した。
蚩尤は収まらぬ吐き気の勢いに任せて熱線を放つ。仮面の縁からは呪血の怨嗟が漏出し、飛沫に触れた白い羽毛が萎れるように腐っていく。
ウツロは迫る熱線を全く意に介さず距離を詰めて斧槍を構える。
蚩尤の吐き出す呪いを弾き、待ち受ける巨像の六本腕をアーミラの援護射撃が貫いた。
「なんだと……!?」
――審判の時だ。
魔槍がそれぞれの掌を貫通し、蚩尤の懐が曝け出される。飛びかかるウツロの斧槍が振り下ろされた。
裁きの鉄槌と呼ぶに相応しい、重たい一撃であった。蚩尤の腹は深くまで切り開かれ、内側から呪血の反撃が棘の山となって突き出した。取り込まれていた巨像の腕が崩れて、ガントールとオロルの灯火を回収する。
「よもや、よもやか……」
白い翼は見る影もなく鮮血に濡れて、リーリウスは蚩尤の体を維持できなくなった。羽毛は萎びて抜け落ち、禿げた皮膚が月明かりに照らされる。
糸を引いて腐り落ちた仮面の奥から、焼き爛れて腫れた唇が荒く呼吸を繰り返している。息をするのも苦しいという風だった。鉤爪が石畳を滑り、穴だらけの胴体から倒れ込む。
ウツロは回収した二人分の灯をザルマカシムに預けた。彼は勇名の仲間達によって治癒が施され、随分と回復していた。
この世の真実を掴み、翼人の野望を打ち砕いたザルマカシムとウツロの二人は互いに頷き合って無事を喜んだ。ついに成し遂げたのだ。
ザルマカシムの隣り、へばって座り込んでいるセリナには手を伸ばし、起き上がらせる。
「死んだかと思った」
セリナの軽口にウツロの面鎧はかすかに微笑んでいるように見えた。
気を緩ませている三人とは離れて、アーミラは蚩尤の顔を見下ろしている。
「…… 稟性の才能か……」
醜い口元が言葉を発する。水脹れの唇がぶよぶよと蠢くのを見て、アーミラの瞼がぴくりと痙攣した。
『稟性』――その言葉が、全ての答えだった。
「語るに落ちましたね」アーミラは杖代わりの槍と、小杖代わりの切り出しを構え、魔槍と光矢を生成する。
「……そうか……!」
二人の会話にそれとなく注意を払っていたザルマカシムは真相を理解する。突然声を張り上げたことに満身創痍のセリナは言問顔で説明を待っていた。ウツロも同様にザルマカシムを見つめる。
「アーミラは奥之院で生まれ、逃げ出した……《《神族の姫》》だったんだな」
興奮気味なザルマカシムの言葉だけでは事情を把握することはできない……が、セリナは眉を吊り上げてアーミラを見つめた。
稟性とは――生まれながらにそなえている性質のことである。つまりリーリウスはアーミラの出生を知っている……それどころか深く関わりを持っている。
「何も知らないというのは、本当に恐ろしいです……」アーミラは呟く。
私は神殿で生まれ、そしてマナと共に逃げ出した。
記憶を失い、継承者となって舞い戻ってきた私の顔を見たリーリウスはさぞかし驚いたでしょう。もし私が記憶を取り戻せば神殿の暗部が世に明るみになる。しかしこの場で私を殺せば、式典に支障が出る。
「『きっとこの娘は前線で死んでくれる』……その可能性に賭けて当代継承者を前線へ送り出したのですね」
「……そうだ」
リーリウスの返答に、アーミラが抱いていた疑念は確信に変わる。
冷たく光る碧眼が荒涼とした神殿領内を眺める。
真実を勝ち取るまで、本当に長かった。
「貴方のような人間を父であるとは認めません」
「お前が最奥から逃げ出さなければ……ここは今も盤石であったろうな……」
「あり得ない」アーミラは否定する。「あなたも、神殿も、ここで終わりです」




