156話 邪魔ばかり
二枚の結界が呪血によって消滅しかけていることに気付いたアーミラは、三枚目の結界を展開した。この決壊はさらに複雑に組み上げている。その方が呪血に食い破られるまでの時間が稼げるからだ。……が――
「痛っ……!」
――不意に襲った痛みに驚き、声が漏れた。
握っていた槍が乾いた音を立てて転がり、何事かと手を見れば指の関節がそれぞれ好き勝手にひん曲がって砕けていた。
「え?」
「何にやられたの……?」心配して様子を窺うセリナも目を丸くする。
「……侵食だ……!」ザルマカシムが指摘した。「術式を複雑にしすぎたんだ! 体に呪いが来ているぞ!」
アーミラの肌には小さな歯形が蛇目紋様の痣が浮かんだ。――赤子の歯形だ。
小さな歯が弧を描いて蛇の目紋を描き、噛みついている。
そのことに気付いて怖気が走る。
「ザルマカシムさん、護りを頼めますか」
「そりゃやるが、何する気だ……?」
アーミラは先頭を譲って引き下がる。その背中は諦めていない。
理不尽なまでにあらゆるものを蝕む呪血の坩堝の底で、何ができるというのか。
「……青生生魂を熾します……」
セリナの示した方角に向けてアーミラは両手を構えた。指の感覚は失われ、爪も剥がれてだらりと力無く血を滴らせている。
猶予はない。ザルマカシムとセリナは最後の賭けとしてその命をアーミラに託した。
――熱を……。
アーミラは魔力を練り始める。扱う術式はスペルアベルで用いたものと同様……あのときは冷却のために用いたが今回はその逆、物に宿る『精』や『素』を激しく振動させることで、冷え固まった溶岩を再び溶解させるつもりだった。
祈りが届くのであれば、きっとウツロは応えてくれる――アーミラは切なる願いを術式に託した。
しかし、三人が立っている場所から炉までの距離には呪血に満たされた領域が広がっている。アーミラの放つ魔術は結界同様に飛沫を立てて漸減し、炙られた呪血が沸騰しながらも術を蚕食して対消滅が引き起こされている。
「力が……足りない……っ」
これでは炉に届くかどうか、届いたとて鉄を溶かすほどの熱を維持できない。
「それなら……!」セリナは半壊している月輪を前方に呼び出し呪血に向けた。「私が道を開ける……!!」
セリナが込めた魔力が月輪を発光させ、呪血の一点は丸くくり抜かれた。月輪の内側に展開した亜空の門に多量の血液が押し寄せ、際限なく吸い込まれていく。
「このまま全部呑めるか!?」ザルマカシムは叫ぶ。
「……無理っぽい! アーミラ早く!!」
亜空の門に流れ込む呪血の渦の中心、透けて見える向こう側には巨像の首が転がっている。力無く開いた唇からは黒々とした溶岩が涎のように垂れて張り付いていた。
「あいつの口の中に兄貴の体があるはず!」とセリナ。
「もう保たねぇぞ!!」ザルマカシムは既に多重結界に消耗して腕が使い物になっていない。青筋を浮かべた眼力だけで結界を維持し呪血の圧をなんとか堪えていた。
アーミラは返事をする間も惜しいと、最大出力で巨像の首を温める。放出している魔力の波動は射線上の空気に熱波の揺らぎを生じさせ、門の中心を通過して巨像を熱する。石の頬が柔らかく赤熱して輝きはじめる。
「お願い……!」アーミラは縋るように固く目を閉じて祈る。炉を熱したところで青生生魂が応えてくれるかは賭けでしかない。
ごふっ。と、セリナは不意に咳き亜空の門が閉じられる。
押し寄せた呪血の波が射線を塞いで、もはや助かる道はなかった。セリナは膝をついて立ち上がれない。呑み込み続けた大量の呪血に内側から侵食され、怨念の慟哭に精神を引っ張られていた。限界だ。
「……ここまでかよ……」ザルマカシムは結界を展開するだけの余力も尽きて血反吐を吐く。体には幾つも歯形が残され、呪血による侵食が襟元まで迫っていた。
二人が倒れ、結界は一気に領域を狭める。
術式はあっという間に食い破られて三人は呪血の洪水に飲まれてしまった――かに思えた。
「諦めるな!」
望みを繋いだのは近衛兵達の声だった。
「まだやれるぞ!!」
「俺たちが助ける!!!」
波の届かぬ高台まで逃げ仰せた彼らは、アーミラ達三人の捜索と救助を諦めなかった。この血の洪水の中でも必ず生き延びていると信じ、そして祈りを繋いだのである。
「……お前ら……」ザルマカシムは呆気に取られて部下達を見上げる。
「やってくださいよ副隊長!」威勢のいい声で発破をかける部下の声。「これでも俺たちは勇名ですぜ!」
「……副隊長はやめろ、ザルマでいい」
血に固められた髭が不敵な笑みにひび割れる。例え間諜に手を染めた裏切り者だとしても、全員が近衛兵の肩書きを捨て、謀叛に翻ってしまえば関係ない。共に戦うと腹を括った仲間の声に背中を支えられ、ザルマカシムは立ち上がった。勇名の戦士として背を反らし胸を張る。そこに抂げられぬ矜持がある。
「まだ生きておるか……」
闘技場の外縁、呪血から避難していた蚩尤はもはや失望したとでも言いたげな声音で言う。あるいは本当に失望していたかもしれない。外典祭祀の理不尽な暴力はセリナとザルマカシム、そしてアーミラの体に確実な死を与えるはずだったのだ。誤算だったのはアーミラの結界が並の術式よりもうんと強固であったこと、そして近衛隊が揃って旗幟を翻したことにある。三女神の顔を寄せ集めた不気味な仮面が俯き影を落とすと、蚩尤は小さく首を振る。
「せっかく名を与えてやったというのに、我の兵もここに来て邪魔ばかり……お前達はもう要らぬ。消えろ」
ばかん。と蚩尤の仮面が割れた。単に顎を開いたのではなく、固く閉じあわされていた三女神の面に亀裂が生じる。
奥にあるはずの蚩尤本来の素顔は暗がりに秘められ、代わりに闇の奥から殺意の閃光が迸った。
放たれた熱線は呪血の水面を鋭く叩きながら高台に集まる勇名達に迫る。その威力は触れたものを容易く溶断し、熱線の走ったあとは少し遅れて衝撃と爆発が生じて飛沫の柱が立つ。下は呪血の海、狭い高台に立つ勇名達は逃げ場もないと恐怖に体を強張らせた。
白衣を切り裂く寸前、灼熱の炉から何かが飛び出して熱線を遮る盾となった。
なにが起きたのか理解できたのは、アーミラとセリナの二人だけである。
「……お兄ちゃん……」
「ウツロさん……!」
熱線を吐き続ける蚩尤は、なおも攻撃を弾く近衛共に苛立ち、出力を高めた。細く絞られた光の筋が真っ直ぐに突き抜け……得体の知れない壁に弾かれて七色の飛沫となって拡散する。なぜ殺せぬ……、なにが起きている……。
照射の限界に達し、蚩尤は仮面を閉じて体を震わせると体内に籠った熱を深く吐き出し、近衛共のいる方をじっと見つめた。
熱線によって巻き上がった呪血の飛沫が驟雨となって降り注ぎ、赤黒い雨垂れが焼石に蒸発して煙が立ちこめる。熱風による気流に視界が晴れると勇名を守った盾の全貌が明らかになった。
黒曜石に似た艶のある平滑な円盤……まだ熱いそれは丸い輪郭から物憂げな袖を振るようにゆらゆらと煙を吐き、呪血の驟雨を受け止めては蒸発させていた。
その姿は夜の闇よりもさらに黒く、さながら日蝕を思わせる。磨き抜かれた面は蚩尤の姿を映し出していた。
意思があるのかさえわからない円盤は、煙を吐く鏡だった。




