155話 ……来ます
「どうなってるんだよ」理解を超えた事象に当惑し、セリナはアーミラの袖を引いた。
なぜ柱から呱呱の声が聴こえるのか、誰でもいいから現状を説明して欲しかった。
呆然と空を見上げる二人とは違い、ブーツクトゥスは赤子の声と翼人の繋がりを結びつけて理解した。奥之院最奥の悪事……闇に葬られた子間引きの因習が形を持って現れたのだと戦慄する。
生々しい生命の主張とは不釣り合いな六本の御柱。
それを眺め、無機質さに畏怖の念さえ覚えた。
「おぎゃあ」と声を張り上げる一本の柱。それを皮切りに赤子の声は一層苛烈に叫び始める。生命を脅かされているとでも言いたげな悲痛な叫びが夜空に響き、御柱の巨大な質量がゆっくりと抽送を開始した。まるで柱の内側に閉じ込められた赤子を虐げているように思えた。
「おんぎゃあ」「おんぎゃあ」「おんぎゃあ」
叫び声と抽送運動はやがて六つの御柱全てに行われた。マハルドヮグ山脈を取り囲む冒涜的な悪夢に、アーミラ達はどうすることもできず困惑する。禁忌を発動した行使者である蚩尤でさえも立ち尽くしていた。……或いは世界の終末を前に為す術などないということかもしれない。
「おんぎゃあああ」
「おんぎゃああああああ」
「おんぎゃあああああああああ」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
絶叫。
この世の全てが音の波に震え、神殿の石材ががらがらと崩れる。
耳を塞いでも骨を揺らす赤子の叫びに曝されて、セリナはいよいよ脳が破裂しそうな気分だった。隣でアーミラが何か叫んでいるが、口の動きははっきり見えていても声が掻き消されて聞こえない。
あまりにも煩い爆音に曝されて、むしろ何も聞こえなくなったように思えたセリナは、ふらっと目を上転させ倒れかかる。ぎりぎりのところでアーミラの詠唱によって結界が展開され、三人は膝をついて呼吸を整える。ブーツクトゥスの開いたまま閉じられなくなった口から涎が垂れ、顳顬から頬に血混じりの汗が伝った。耳から出血しているようだ。
「おい大丈夫かよ」ブーツクトゥスはセリナに言う。そして自分の耳からも血が流れていることに気付き、ふらつきながらも立ち上がる。「困ったな……攻撃はこれからだってのに」
アーミラの張った結界は三人が入れるだけの狭い半球状のもので、外の絶叫は幕一枚向こうにくぐもって尚も響いている。がらがらと不快な赤子の声は徐々に上擦り、高音域の音波へと変化して――限界点に達し、破裂音とともにぴたりと鳴り止んだ。むしろそれが恐ろしかった。
「止まった……?」セリナは辺りを窺う。
悲しみへ引き摺り込むような痛ましい残響を引きずって、沈黙が場を満たす。肺を引き攣らせしゃくりあげる赤子の歔欷が消えた。
「……来ます」アーミラは確信を持って呟く。
肩をびくつかせ、二人も柱を見つめる。
御柱の抽送運動が終わり、横倒しに傾いていくのが見えた。まるで神殿という盃に酒を注ぐかのような動きだ。
外典祭祀が始まった……いや、正確には終わりを迎えようとしている。
生温い不穏な風が血の臭いを運ぶ。儀式の終わりを告げる風だ。
奥之院最奥に流れた無辜の霊素は、まだ物心も無いために概念すら獲得していない負の感情のみを抱いて怨念となった。黒く濡れた瞳は一度も空を見ることなくくり抜かれ、微笑みかける母の寵愛を知ることもないまま間引き殺された。
その濃密で純粋な情動は世界を呪う澱となり、この禁忌の術式によって顕現するはずだった。だがしかし、怨念はまたも翼人による幽閉によって御柱の中に封じられ、儀式のための贄としてなぶり殺されたのだ。
一度ならず二度も尊厳を踏み躙られたのである。
これが外典祭祀、霊素の二度殺し。
御柱の内部で受肉した赤子は万力に潰されるが如く肉体を損壊し怨嗟の念は二乗する。
無に帰すはずの哀れな霊素は徹底的に穢され、濾し取られた呪咀のみが柱の内部に満たされる。それがマハルドヮグに、神殿に注がれようとしている。
ごぽっ……と、溢れ出る赤黒い液体。
柱を見つめていたアーミラ達は、煮え立ち湯気を吐くその液体が呪われた血だと直感で理解した。だがあまりにも膨大な血の洪水を前に避けようもないため呑み込まれぬように結界を死守するしかない。
「踏ん張れよ……!」ブーツクトゥスはアーミラの結界の外にもう一枚防護結界を重ねた。「ここを越えなきゃ何もかもお終いだ!」
御柱から注がれ、狂った飛沫を撒き散らす呪血は行き場を求め怨嗟に煮えたぎる。炎上していた神殿を鎮火して赤く塗りつぶし、触れるもの全てを立ち所に侵食しながら呪いを拡散させてゆく。
渦を巻いて降り注ぐ奔流は瓦礫を押し流す津波となってブーツクトゥスの結界に迫る。それはもはや、可視化された『死』そのものであった。
結界の壁にそって液面が波打ち、半球状の空間が丸ごと呑み込まれた。視界は光を遮られ、防護の術式と怨嗟の念が接触する境界面では激しく泡が発生し、ちりちりと焼きつく火花が状況を照らした。損耗した結界の穴から呪血が染み出している。
「……だめだ……!!」ブーツクトゥスは自身の展開した結界を放棄して視界を照らす。「食い破られる……!」
漏出する血液はそのままアーミラの結界と接触する。抵抗するためにアーミラは結界を拡大させて押し返すが、酸に溶かされるように術式はみるみるうちに消耗していく。悪足掻きに一回り小さい結界を重ねて補強したものの、時間稼ぎが精々。打開策とはいえない。
「あの血はあらゆる術も破壊するようですね……」
「術だけじゃない。呑まれれば俺たちも死ぬ」
このままでは――アーミラは破滅を予感して奥歯を噛み締める。その隣、セリナは万事休すと悟り、呪血に覆われた景色を仰ぎ見て、思わず兄の名を呟いた。ウツロの残骸は今も蚩尤の手の中に握られている。
それでも、アーミラは一つ閃いた。
「ウツロさんの手脚はどこにありますか!?」
切羽詰まった状況での突然の問いかけ。
ブーツクトゥスは、アーミラが何か策を思い浮かんだのだと悟る。
ウツロの手脚はアーミラが合流した時点で既に消失していた。この洪水のどこかに転がっているはずである。
「溶岩に溶かされたよ……」セリナは応える。
「溶岩?」
アーミラは疑問符を浮かべるが、ブーツクトゥスが「炉のことだろう」と言い添える。
「それはどの方角かわかりますか?」
セリナはおおよその場所を指差した。結界の向こうは全て赤黒い濁流に覆われているものの、己の立ち位置と蚩尤のいた方角から少なからずの見当はついている。




