153話 この神聖な大義に、誰が罪を犯しえようか
俸禄も地位も捨てた彼女が矜持を持って貫いた一本の筋は、神殿に残された部下にとっては闇夜を照らす光であった。天帝という光を失い明日も見えぬ急転直下の一大事の夜に、心許ない蝋燭の灯りだとしても彼女は歩むべき道標を示してみせた。その姿はウツロが学ぶべきものであり、薫陶に心を震わせた。彼女だって明日もわからぬ立場であるのに、上に立つものとして見事な立ち居振る舞いであった。
対して、神の遣いであり天帝を僭称する翼人はその地位を頽落させ、近衛兵から見放された。
「よくも……」
恨み言を吐くリーリウスの低く掠れた声は不気味な弔鐘のような響きを持って領内の士気を凍えさせる。
「……よくもやってくれたな……」
リーリウスの怒りを受け、神殿は俄かに揺れる。石材でできた堅牢な建造物が地鳴りにひび割れ、耐久の閾値を超えるとあっという間に崩壊を始めた。崩れていく自身の城の中心で、リーリウスは居直り、不敵な笑みを浮かべる。
「我ら一族に対して責任を問うだと……? 笑わせる」
まだ何か企てている――そう考えたウツロは斧槍を向けてリーリウスに迫るが、頭上から迫る影に気付いて回避に転ずる。巨大な影が鎧の体を掠めて玉砂利が跳ね、舞い上がる砂埃の向こうで倒壊した三女神の巨像がさらに崩壊し始めていた。反応が遅れていれば潰されるところだった。
「炉を開け」
煙る景色の向こうではリーリウスの声と赤々とした熱波。風に舞上げられた砂埃が晴れると、地に転がる巨像の首が口を開けていた。
石像の口内には灼熱の溶岩がとろりと待ち受けている。
――何が起きた……?
「ウツロ……!」
「お兄ちゃん!」
切羽詰まった呼び声に視線を向ける。先程二人が立っていた露台は砲撃を浴びたかのように吹き飛んでいた。その傍ら、脇腹ごと翼を抉られて血を流しているセリナが倒れている。
――セリナ!
腕の出血も構わずセリナは上空を指差す。助けて欲しいのは私じゃない……!
指し示す先で巨像の腕が夜空に突き上げられていた。偶然によって屹立しているのか……まさか、ただの瓦礫であればこうはならない。
――まさか、これも巫力なのか……!?
石像が敵意を持ってこちらに襲い掛かっていると知って、ウツロは戦慄した。
倒壊した三女神の巨像は表情を硬く保ったままリーリウスの傀儡となり暴れ始め、露台に向けて振り下ろされた巨大な拳の一撃がセリナに痛手を負わせた。手中に掴まれたカムロの瞳と首の無いウツロの視線が交差する。脳裏には彼女の言葉が聞こえていた。
『見捨ててもらっても構いません。ですがもし気が向くのであればどうか私を守ってください』
「カムロを助けて!」セリナの叫び。
当然だ。ウツロの体は駆け出していた。
縮地で石像の腕に飛びつき、斧槍の一撃を振り下ろす。耳障りな甲高い音が鳴り、白く硬い石材が僅かに欠けたものの、これでは歯が立たない。食い込んだ斧槍を楔として、ウツロはセリナの方へと手を伸ばす。
――刀を貸せ!
首のない兄の声が聞こえているかのように、セリナは得物を投げ渡す。
柄を握り、ウツロは巨像の腕に向けて横一閃に刀を振るう。亜空の刀『輝夜』の剣閃が煌めき、石像の腕が艶やかな断面を晒して落ちる。
握力を維持した指の檻を切り刻んでカムロを助け出し、腕に抱えると痛みに顔を歪めた。彼女の肋骨は圧迫されたせいで折れているようだった。
――無事か?
ウツロは声もなく見つめ、カムロは気を失わぬように根性で痛みを堪える。何か訴えたそうに口を開閉しているが、陸に上げられた魚のように声は出ない。目蓋を千切らんばかりに目を見開いて、かろうじて言葉を吐き出す。
「うぅし、ろ……!」
ウツロは咄嗟にカムロと刀を放り投げた。次の瞬間、巨大な質量に轢き飛ばされたと思えば胴鎧を鷲掴みにされる。
ぐわっと振り回される遠心力に抗えぬまま、口を開けて待つ灼熱の炉へと叩きつけられ、沈められた。
どぷん。と、粘度の高い液面に脚が沈み、底に付かぬまま潜っていく。くぐもった音の後に外の喧騒は遮断され、足先から全身にかけて、感じたことのない激痛を覚えた。鎧の消失する感覚に、長く忘れていた死の恐怖を思い出す。
視界は燃えるような赤から眩しい白に焼かれ、ウツロは助けを求めて右手を伸ばす。
死に様を見て愉しむように、巨像の腕がウツロを摘み上げた。
「どうだ。手も足も溶けた気分は」
荘厳とも陰鬱とも形容できないリーリウスの声……。炉から引き上げられたウツロは外気によって冷やされ板金が脆く軋む。見るも無残な姿だった。
下肢は腰から先を溶解して失い、残されたのは胴と右腕のみ……巨像に摘まれた残りわずかな肉体も、柔らかく赤熱し、指をすり抜ける雫となって、ぼたりと落ちた。
「うそ……お兄ちゃん!!」
セリナの叫び。駆け寄ろうとしたが、リーリウスは没収するようにウツロの残骸を取り上げた。
石像の首は口に青生生魂を溜めたまま炉としての役目を終え、使い捨てられた。事切れたように横を向いた石像の顔は、炉の中の溶湯を涎のように垂らし、池をつくった灼熱の湯が石畳に広がって火を吹いている。
「我を裁こうとしていたようだが、全く愚かな……」
向かい合うリーリウスは人の姿を逸脱し始めていた。肥大化した翼が彼の肉体を持ち上げて、羽毛の中に呑み込んでしまう。傀儡として操っていた三女神の巨像も羽の内側に取り込むと、リーリウスは恐ろしい梟の姿へと変貌した。蚩尤となったのだ。
「この世に蔓延る禍人種を一人残らず駆逐する。民に平和を齎す。この神聖な大義に、誰が罪を犯しえようか」
貌は三女神と老人の混ぜ合わされた醜い仮面で覆われ、リーリウスは炎上する神殿の中心で翼を広げる。
「我こそが法であり、故に審判を下すのは貴様ではない」
そして栄光を疑わない蚩尤は嗤う。
呵呵大笑がマハルドヮグの頂きを圧して、避難に駆け回る近衛隊達の背筋を粟立たせた。手当のため肩に担がれ本殿へと運ばれるカムロは、朦朧とした意識で天帝の本性を見つめ、落胆した。
「……やはり、ウツロが正しかったのですね……ならば、あれが蚩尤……」
退避の殿に付き添ったセリナは頷く。
「今からでも遅くないよ。逃げたい奴は早く山を降りな」セリナは兵達に忠告する。「私は兄貴を助けに行くから、多分もっと危険になる……」
手頃な枝でも振り回すような気軽さで磨き抜かれた片刃の得物を肩に乗せ、セリナは兵士を一瞥した。
千切れたはずの翼と脇腹の傷は痕跡もなく再生し、その治癒能力は大祈祷に匹敵すると兵達は推し量る。龍の娘の言う通り、加勢するのは無謀に思えた。この先は並の兵士では命が幾つあっても足りない死線となるだろう。
後に続かない兵士をちらと見て、セリナは来た道を引き返し駆け出した。臆病だと揶揄する笑みはなかった。
むしろ利口だとすら感じていた。異世界に迷い込んでからこっち、禍人側に立ってこの悲惨な戦闘を垣間見てきた彼女は、自暴自棄と勇敢さを履き違えて死にゆく同胞をうんざりするほど看取っていた。力量を踏まえ戦闘に参加しないだけ弁えているというものだ。
誰かを頼る素振りもなく龍の娘は戦線に躍り出る。祈りも加護も期待していない彼女が天帝との戦闘を繰り広げる最中、残された近衛隊達は動乱に揺れる現状に打ちひしがれる。
ほんの数刻前まで、我々は神殿側に付いていたはず……。それがどうして、今は何に従えばいい……。なぜ、こんなことに……。
毀たれた本殿の入り口では回廊の壁が崩れ、孤軍奮闘する龍の娘の姿が見える。いや、正確には見えていない。目で追いかけられない速度なのだ。瓦礫の隙間を駆け回り撹乱し、戦っている気配を窺い知るだけだ。
「何もかも桁が違う……」
「くそ……っ! 俺たちにできることはないのか……!」
「頼るしかないなんて、情けねぇ……」
加勢できない歯痒さに兵士は拳を震わせて唇を噛む。
思えばいつだって、他力に頼っていた。その最たる例を天帝として、権力の中央で安穏と過ごすばかり。危機に瀕すれば前線の兵士に頼り、継承者が現れれば両手を上げて出征を見送った。
帝が近衛を、近衛が勇名を、勇名が農民を……上に立つ者が下に頼ることで生きている。……勲の誇りとして授かった肩書きに、いつからか俺たちは、甘えてしまったんだ。
「祈りましょう……」
憔悴した様子のカムロは言う。
「弱音を吐く暇があるなら、心を捧げなさい……」
その瞳に弱々しさはない。
「ですが、我々の神は――」
「神に祈るのではありません。あの娘に、ウツロに、祈祷を捧げるのです。
例え必要ないとしても、私達が無力だとしても……祈りはきっと注がれる。なにかの助けになるかもしれません」
カムロに促され、傍観するしかなかった兵士達は一人、二人と指を組んで胸に寄せ、切実に祈りを捧げた。
これは天帝の他力本願とは似て非なるものである。
運命を他人任せにせず、心を束ねて一連托生とする想いは、戦場に立つ者を奮い立たせ、背中を支える。
空の器だったセリナの胸に、密かに、確かに、暖かなものが注がれていた。それは彼女だけではない――
「待たせたな! ニャルミドゥよ!!」
溌剌とした吶喊の雄叫びとともに蚩尤の側頭部に光弾の雨が降り注ぐ。強烈な爆圧に梟の巨体は仰け反り、何事かと首を向けた。
「……ブーツクトゥス……!」
セリナは予期せぬ仲間の加勢に目を輝かせる。
「遅れちまったが、ウツロを助け出すにはうってつけの仲間を連れてきた」
少年のような手柄顔で笑む大男にセリナは少し面食らい、しかし心強いと眉を吊り上げた。
圧倒的な物量で蚩尤を退がらせた新たな仲間は、自らが射出した魔弾の煙を払い退け、揚々《ようよう》と手印を構える。
「加勢します!」
切り揃えた藍鉄色の髪を揺らし、女神アーミラが最後の戦場に辿り着いた。
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[18 審判 中編 完]
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