152話 私は……恩義に報いなければなりません
「ザルマカシムとは似ても似つかぬ方ですね……名前を伺っても……?」
そう訊ねたのは男の方である。
語調は暢気なものだが、顔を知らぬのはお互い様だと言わんばかりに男は借問する。
副隊長とは知り合いである様子から、奥之院の出入りを許されたものであると推察した。
「近衛隊隊長のカムロです」
「おお、貴女がカムロ様ですか、お話はザルマカシムさんから予々《かねがね》聞いておりますよ」隊長の肩書きを聞いて男は深く頷きを繰り返し、顔と名前が一致したと言いたげに大仰な反応をする。
「失礼ながら、貴方は何者か」カムロも訊ね返す。
「これはこれは、申し遅れました。私は奥之院天帝侍医のマーロゥ・メイディと申します」
「侍医、マーロゥ・マイディ……」カムロは名前を呟く。姓を持つということは勇名……由来は薬師か。
「して、そちらの方は長女継承者と三女継承者では御座いませんか?」
思考に沈くカムロの意識に割り込むように、マーロゥは一歩近付いて手で示す。
「一見する限りでも酷い傷だ。重傷です。えぇ、重傷極まりない」
指摘するとおり、オロルもガントールも五体満足ではなかった。特にガントールの義足は無理が祟って出血を繰り返し化膿している有り様である。
「……マーロゥ殿、この傷の手当を任せても宜しいでしょうか」
「それはもちろん……貴女はどこへ?」
踵を返し階段に向かうカムロの背に問いかける。
「私は……恩義に報いなければなりません」
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苦悶を噛み締め堪えるように血の滴る口の端を下げ、リーリウスはセリナを睨む。世に天帝と畏れられる、身の丈二振を超える存在を相手に躊躇わず戦うセリナの姿には、内心ウツロさえも気圧されていた。
崇め奉られる信仰の象徴たるラヴェル一族が血を流すのを目の当たりにするのは、これが初めてだった。
「忌々しい……、これだから禍人は好かぬのだ……」
リーリウスは体勢を立て直し、痛みを振り払うように首を振って鼻に詰まった血を口から吐き出した。
対するセリナは、呼吸を整え、あっけらかんと言い放つ。
「あんただって禍人じゃない」
その言葉は、戦闘の間隙にある一拍の静けさの中に児玉した。
神殿が隠し続けてきた揺るぎない事実である。
ウツロに顔があれば目を丸くしていただろう。そして魔法が溶けたように腑に落ちた。
わかっていても、こうして言葉にされると強烈な違和感があった。それこそ己の意識が巫力で操られているのではないかと疑ってしまうほどに、リーリウスの威厳のある天使のような姿に畏怖を覚えていた。禍人種であることを呑み込めずにいた。
だが、その威光は急速に翳り始める。そうだ。天帝は所詮混血なのだ。
ウツロと同じように、リーリウスさえも唖然とした表情をしていた。自身にかけていた魅了が剥がれ落ちて、正体を見破られたことに動揺しているようにさえ見えた。
「世迷い言を……」
「ふざけてないよ。私もあんたも同じ。もう隠せないから」
「その通りです」
セリナの言葉を継いだのはカムロだった。
「カムロ……?」セリナは本殿の露台を見上げる。「操られたはずじゃ……」
「龍の娘が言っていることは、正しい」
カムロは視線で応え、部下達の前に姿を晒して、詠唱する。
それは信念の一撃であった。
「占星――術重。
八蠍座――」
指し示すカムロの指先はリーリウスに向けられ、次いで詠唱が重ねられる。
「――九射手座」
呪力はカムロの全身から霧のように染み出し、詠唱に呼応して射手の中に集結する。握られた呪力の弓が右手に収まると同時に、左手は鉱石化したオロルの手首を握り、鏃に仕込んだ。
射手座の弓に構えるは蠍座の毒……紫水晶に込めた明晰の祈りである。
「全隊、目を醒せ」
放たれた矢は風を切ってリーリウスに迫るかのように見えた。身を庇う翼へ突き刺さる刹那、矢は四方へ枝分かれしてリーリウスを素通りする。
神殿の床に鏃を跳弾させた矢は、壁に向かって反射と屈折を繰り返し、その度に鉱石が砕けて領内に散らばる。一見ばら撒かれただけに見えた欠片達は円形の回廊にそって規則的な芒星を描き、リーリウスを捕らえた包囲陣を展開した。
「……なんだ……?」防御を選んだため後手に回ったリーリウスは対応に遅れ、包囲陣を見上げる。「解呪だ! コルネア! オシュトル!!」
攻撃を警戒するリーリウスは近衛兵に呪力の解除を指示するが、兵達は誰も応えない。
カムロの放った矢の狙いは天帝ではなかった。
鉱石の塵は拡散し、神殿を半球状の霧が包む。目に見えぬほどに細かく砕かれた欠片が近衛兵の肌に刺さる鍼となり、明晰を込めた毒は気付けの薬となった。掛けられた巫力を奪い去る。
「……身体が動く……!」
「俺達いったい何を……」
「操られていたのか……?」
近衛兵は意識を取り戻して互いを見つめる。そして神殿の中央には陣に怯える醜態を晒す天帝。すぐそばに龍の女と、虚の鎧が立っていた。奇襲に現れたはずの二人は何故か隊長と視線を通わせて共闘している様子。混乱の中で少しずつ、この争いの勢力図が見え始める。
微睡みの中でも、近衛兵達は天帝の巫力で操られていたことを漠然と覚えていた。そして龍の娘の言葉もまだ耳に残って消えていない。天帝が禍人だって……、まさか……。
「近衛隊よ聴け!」露台に身を乗り出してカムロは叫ぶ。「……驚くべきことですが、これからお伝えすることをしかと受け止めなさい。この龍の娘が言ったこと、我々が信じ奉仕してきたラヴェル一族が禍人であるということは、嘘ではありません」
外縁からどよめきの波がうねる。懐疑の衆目に曝されたリーリウスは背を丸め、翼の陰でカムロを睨め付ける。その邪気を払うようにセリナはカムロの前に立って月輪の威光で視線を跳ね返す。手には亜空の刀を握っていた。
カムロは部下達への説得を試みた。守るべき部下を救うために。
「謀叛人であると断ぜられた先代の忘形見……ウツロの名で知られるこの鎧は前線に真実を見つけ、争いの根絶を実現するべく神殿に敵対しました。私はその経緯を知り、五代継承者のガントール様、オロル様と共に叛旗を翻すこととなりました。
私と、そしてこの場に集うあなた方、我々近衛隊はその名の通り神族に仕える誉れ高き兵士である。だがしかし、考えて欲しい。思い出して欲しいのです。その肩書きや誉れよりも先に、大義があることを。
この地位まで昇り詰めたのは、ひとえにあなた方が世界を……人々を守りたいと決意したからでしょう。
神族は巫力という巧妙な術で人心を掌握し、不当に権益を浴している事実を私は知りました。この事実は仕えるべき神族との信頼関係を根底から覆し決して無視できない、許されざる行いである。そのため私は、今より近衛隊長の座を離れ、リーリウスに対し禍人勢力と共に反抗しようと思います」
近衛兵の戸惑いは相当なもので、篤い信仰を寄せている者はあまりに不届きな隊長の姿を前に顔面蒼白にして思考が追い付かずにいた。呑み込むには大きすぎる衝撃だった。
生まれる前から存在していた決して揺るがぬはずの善悪の道標がひっくり返ったのだから、その驚きは無理もない話である。
「終わりの見えない戦争に、家族、友人、恋人を失った者だって大勢いることでしょう。長く続いてきた苦しみの時代に、皆が祈り、願い続けた終戦が、もうあと一歩のところにある……!
それは敵を一人残らず根絶するという勝利ではない。他者によって齎される偽りの旭日に目を眩ませてはいけないのです。この世界に幾重にも帳をかけた巨悪を暴き、我々は自らの足で、明日を迎えに行かなければなりません。
……この夜明けを迎えることができなかった同士達が何故、その命を散らさねばならなかったのか……よく考えてほしい。この場にいる貴方達にはその機会がある。
今ここで背を向けてマハルドヮグを降る者を私は責めません。むしろ全員逃げ出して欲しい。大切な人を連れて、一目散に……。
重ねてお伝えしますが、これから先は地位や名誉のための戦いではありません。人々を騙し、多くの命を犠牲にしたラヴェルに対して責任を問う戦いです。そして禍人の謗りを受け迫害された種族のために挑む戦いなのです。
武器を下ろし神殿から降りるか。我々と共に一族に立ち向かうか。いずれにしろ二つに一つ――」
締めくくりにカムロは告げる。
神人種と呼ばれマハルドヮグの頂に住む者達、彼らの中から選別された上澄みである近衛隊の、さらに上澄みである隊長としての言葉。
「――最後の命令を伝えます。全員、この夜を生き残りなさい」




