150話 酒はないのか
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神殿に奇襲をかけたウツロとセリナが如何にして形勢不利に追い詰められたのか。時は数刻前に遡る。
ムーンケイの上層に移動した一行は、風前の灯のような西陽を眺めていた。千切雲がマハルドヮグの山陵に絡み細くたなびいて、まるで夜へ吸い込まれているかのようだ。暑さを失った晩夏の夜風が高原にそよぎ、セリナの胸をざわつかせた。
満を持して神殿へと臨むため、カムロとウツロが夕飯の用意に走った。カムロは上層の大通りを回り、避難せずにいた街商から腹の足しになるものを買い集める。
一方でウツロは、山の深くへ潜って狩りへ出た。
二人が食糧を集めている間、焚き火を起こす者と山菜を集める者に仕事を分担し、枯れ枝に火を起こして待つこととなった。それぞれ準備を済ませて腰を落ち着かせた頃にウツロが耳長の兎を一匹調達して戻る。
捕らえた兎は腹部から左後脚を槍に裂かれているがまだ生きており、それをスークレイが引き取って調理番に立った。まだ帰ってこないカムロを待つ間に兎の首を切り、逆さ吊りに血抜きを行った。小柄な体から溢れ出る多量の血液を自前の小鍋に集めると、懐に忍ばせていた乾飯と水も加えた。米が柔らかくなるまで煮込む血粥というものを拵えたようだ。
「鍋なんて持ってたんだ」セリナは言う。
「これさえあれば最低限の飲み水が沸かせますもの」
調理の様子を見ていたセリナはこの世界でそれなりに酷い飯を口にした経験があるため、この獣人種の拵える血粥もまともな飯として見ていた。しかし、賢人種のオロルには料理とも呼べない下手物で、煮えはじめた小鍋の蓋を開けたとき香りたった湯気が鼻に入ると獣臭に驚き顔の中央に皺が寄った。食の好みが違いすぎる。凝縮した血生臭さに食欲も失せてしまう……滋養にはよいかもしれんが、わしは遠慮しよう。
「欲を言えば胡椒と塩だけでもあれば味が整うのですが」
スークレイのぼやきに、丁度戻ってきたカムロが「それでしたら」と応える。
「薬膳ですが、代用できますかね」差し出した硝子瓶の中身は不揃いな粉末が入っていた。「枸杞や陳皮、あとは果実の乾物が混ざっています」
スークレイは栓を開けて香りを確かめ、「体に良いなら」と少量をふりかける。察するに姉のためを考えた一品だろう。オロルは内心胸を撫で下ろした。
残った兎の肉は皮を剥いで脚と胴でぶつ切りにした後、鍋の回りで石焼きにした。その他カムロが買い集めた出来合いの握り飯と温い薬缶の汁、串焼きの川魚が人数分あった。思っていたよりも露店は開いているようだった。
「酒はないのか」オロルはがっかりした顔をするが、カムロには通じない。
「当たり前です。手もないのにどうやって飲むつもりだったんですか」
「そこに口がないウツロが居る」と、皆まで言わず、返すウツロも匙を手にして律儀にも隣に座ったので束の間の笑いを誘った。
「ムーンケイの様子はどうだったんだ?」ガントールはカムロに訊ねる。
「朝に避難していた人たちの何割かは戻ってきているようでした。聞けばナルトリポカでアーミラ様を追いかける捕物騒ぎがあったそうです」
その話にウツロが反応する。
「山の方へ逃げたらしく、もしかしたらムーンケイに逃げたのではないかと考えた人達が国に戻り、その動きを見た街商は店を開いたようですね」
「なるほど。弁当も持たずに走り回っているから、店を開けば儲かると考えたのか……逞しいな」
夕飯調達が望外に豪華になったことの理由に納得した一方、ウツロはどこかそわそわとしている。アーミラが近くにいる事実に気が逸っていた。
「探しに行こうなんて思うなよ」オロルは先んじてウツロに釘を刺す。「人手は足りんが、寄り道する余裕もないのじゃからな」
人手という言葉を耳にして、セリナはふと思い出したように腰元の雑嚢に指を差し入れてまさぐる。二つの切り落とされた手首を引っ張り出して、焚き火の光に照らして検めた。もともと変質したオロルの手首ではあるが、知らぬ間に肉も骨も硬質化して薄紫の結晶となり、腐敗を免れていた。
「飯時に見せるものでもないけど……、これってどうなってるかわかる?」
「……なんですか……? それは」
セリナはそれをカムロに手渡すと、同じように焚き火に透かして見せた。人の手首とわかってもカムロは取り乱さずに眉間を寄せて渋面で眺める。まるで鉱石と見紛うほどに変質しているが、少なくともセリナにとっては無用の長物で、戦闘では邪魔だった。
「わしの手か……?」オロルも興味深そうに身を乗り出して眺めるが、カムロが差し出すと首を振って受け取らなかった。
「オロル様の手ならオロル様が持つべきでは」
「いらん」オロルは再び首を振る。「相性というやつでな。朽ち果ててなお、わしにとっては呪物なのじゃ」
呪物と聞いてカムロは放り投げたくなったがそうもいかない。セリナに返そうと差し出したが、セリナは頑として受け取らない。
「お主が持っておれ。この先役立つかもしれん」
押し付けられる形で、あまり嬉しくない頂き物をカムロは不承不承受け取った。
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焚き火を囲ってそれぞれが飯を分け合い、米の一粒、汁の一滴まで残さず食べ終わると、さてと立ち上がり神殿を見上げる。
狙いは翼人のみ。立ちはだかる脅威も所詮は神族種。これまでの強敵と比べれば烏合の衆である。……だがきっと、これが最後の戦いとなるだろう。
ムーンケイから神殿へ続く道を堂々と進み、いつか出征に旅立った冠木の前へと辿り着く。固く閉じられた門扉の屋根に飛び乗れば、夜警に歩哨していた神族種がぎょっとした表情でこちらを見つけ、敵襲を知らせる閃光を空に打ち上げた。
外廓の灯石が警戒の光を放ち、神殿領内を真昼のごとく白々と照らし出した。
駆けつける近衛兵を前に、カムロが声を張り上げる。
「全隊止まれ!!」
隊長の号令に近衛兵はびたっと身体を静止させ、張り詰めた呼吸でウツロと背に隠した龍の娘を警戒する。僅かでも動けば仕留めてやるという気迫である。
緊張に息を呑む静寂。カムロが口を開こうとしたとき、玉砂利を踏んで歩く足音が響く。隊の人波が後方から左右に開き、頭を垂れて道を開ける。
「ほう……連れ帰ってくるとは見事なり……」
拙い――カムロはその声を聞いてすぐに口を噤《次ぐ》む。この状況は想定していなかった……。
ラヴェル・ゼレ・リーリウス。天帝が直々にこの場に姿を現すとは、誰が予想できただろうか。戸惑いつつもカムロは目を伏せ、手柄を持って帰ったのだと振舞う。
獣人種を上回る二振半の背丈がカムロのすぐそばまで迫り、首を垂らして旋毛を見下ろす。カムロは目を合わせることもできずに直立のままじっと耐えた。灯りに透ける白髪がカムロの周りを天蓋のように囲い、ゆったりと広げた翼が眼前を遮る。悪事を知っていても思わず魅了されてしまう、美しい純白の翼であった。
「……ご、ご報告、申し上げます。神族近衛隊長、カムロ。ただいまムーンケイより帰投……謀叛人、虚の鎧も……つ、連れて……戻っております……」
辿々しく言葉を紡ぎ、カムロは報告を終える。リーリウスは嗄れた声で「そうか」とだけ返事をした。首切りを免れたカムロは息を殺して耐え忍ぶ。
リーリウスは背を伸ばし、攻め時を見失って立ち尽くすウツロ達をゆっくりと眺める。この場には少なくとも龍体のセリナがいるが、それにも怯える様子はなく、意図が見えない。いっそ耄碌の痴呆なのではないかと思ってしまうほどに所作は悠然としていた。




