やはりわしは相応しかった
助太刀に入る余地はない。そして誤算だったのはトガの備えている武器を見誤っていることだった。
警戒するべき兇器は逞しく棘に覆われた前脚でも、巨人の斧のような尾部でもなかった。背に露出している白い脊椎のようなものこそが真の兇器であった。
それは毛に覆われた背中から剥がれると、まるで巨大な鋏のように開かれ、オロルの小さな体に喰らい付かんとする。
不覚を許したオロルの首元に牙が触れる刹那、一閃。
ガントールは思わず目を瞬くとオロルの安否を見定める。その光景に違和感を覚えた。トガと相対していた賢人の姿は先程までいた場所から忽然と消え、明後日の方に、まるで最初からそこにいたかのように佇んでいた。
一方でトガの背中からは堰を切ったように鮮血が噴き出ていた。大きく開かれていた鋏の動刃――つまり上顎が、いつの間にか大きく欠損していた。
切った……? オロルは一体何をしたんだ……?
ガントールが困惑してオロルを見ると、彼女は足元に転がったトガの顎骨を見下ろしているところだった。
オロルはトガから完全に目を離しており、しゃがみ込んで血溜まりに両手を浸しはじめた。
あいつ何してるんだ……!?
上顎を断ち切られたトガは痛みに興奮しているのか、地団駄を踏んで転がると勢いよく建物にぶつかり篝火を押し倒した。ぼうっと盛大に火の粉が舞い、息吐く暇もなく弾けるように炎の中から飛び出す。狙いは未だオロルである。隠し玉の兇器を失ったとて、トガにはまだ斧がある。爪もある。
背中を向けている継承者を引き裂くべく二度三度と前脚を振り回して襲い掛かるが、奮闘虚しく空を切る。
その時のオロルの身のこなしにも、ガントールはやはり目を疑った。
早すぎて見えないのだ。
まるで現れては消える幻のようである。
トガの爪がオロルに届く、肉を引き裂くその次の瞬間、爪は虚しく空振り土を踏む。攻撃が確実に届く筈なのに刹那には避けられている。トガは歯痒さに唸り声を響かせると力技に頼りだした。
前脚を軸に身を捩り、渾身の力を持って巨大な斧を横一文字に薙いでみせた。 広範囲攻撃だ。
「オロル!!」思わずガントールが叫ぶ。
膂力を存分に奮う薙ぎ払いが疾風を生み出し炎が吹き飛ばされる。ぶおんと耳朶を打つ轟音と共に一帯の瓦礫は押し出され、散った火種が一層勢いを強めて火の気が辺りを囲んだ。薙ぎ払いの一閃には強かに肉の爆ぜる音がして、血飛沫がガントールの体を濡らす。揺らめく篝火が鉄臭い煙を昇らせて鎮火してしまえば、決着は闇の中に紛れてしまった。
返り血を浴びたガントールは、今度こそオロルがやられたと思った。
しばらくして、薄闇の中でトガの雄叫びが響もした。
「勝負あったぞ」血煙の中から、呑気な声が響いた。
オロルはトガの全身全霊を持って繰り出した薙ぎ払いを前に回避動作をとってはいなかった。ガントールは見ていたのだ。今度こそ確実に屠られる……そして肉の爆ぜる音を聴いた。噴き出す血を確かに浴びた。
血煙が私雨のように一帯を濡らし、視界が晴れると、そこにオロルは立っていた。
一歩も退かず、立っていた。
その向こう、トガの太く発達した尾は千切れて転がっている。
「なんで……」ガントールは声を漏らす。オロルが無事であることが、喜ぶよりも先に不可解であった。「どうやって……!?」
オロルは不敵な笑みを浮かべると人差し指を立て、自分の口元に近付けた。ガントールの疑問など野暮だと言うように。
「わしの名はチクタク・オロル・トゥールバッハ。時を司る三女継承者……わしは決して、傷付かん」
オロルの静かな勝ち名乗り。その血に濡れた指先にこそ、あの一合を分かつ手品の種があった。牙を失い、斧を失ったトガは自らの鮮血に溺れ、鼻から血の泡を吹きながらもオロルに襲い掛かるつもりでいる。もはや脅威ではないその敵を前に介錯に立つオロル。ガントールは見守る。
トガは息も絶え絶えに、よろけながら勢いをなくした前脚で飛びかかる。というよりも、後ろ脚で立ち上がり、万歳の体勢で倒れ込むようだった。
オロルの身の丈をゆうに超える巨体である。のしかかられるだけでもひとたまりもないだろう……もちろん、攻撃が当たるならばの話だが。
オロルは軽く握った右手を前に掲げる。
そして親指に引っ掛けていた四本の指を弾くようにぱっぱと開いた。血塗れの指先が飛沫を飛ばし、霧状の血液が舞い、空中に静止した。オロルが時を止めたのだ。
のしかからんとするトガを待ち受ける細かな飛沫の粒一つ一つが針のようにその身に突き刺さる。剣閃を防ぐ丈夫な毛皮をすり抜けて、厚い皮膚に極小の針が沈み込むと激痛が全身を襲い、トガは断末魔をあげる。
思わず身を攀じるが、体内に埋め込まれた飛沫は時を止めたまま動かない。トガは苦しみ悶えれば悶えるほどに肉体を掻き乱され、やがて虚しく命を落とした。オロルがトガの尾を切り飛ばした手品の種も同様の術を行使したのだろう。
「希う果てに齎された……やはりわしは相応しかったのじゃ……」オロルは独り言のように呟く。
ガントールはそんな三女継承者の姿を前に静かに身震いした。それは司祭たちが感じた畏怖の念と同じだ。
オロルは既に完成されている。
そして少しだけ壊れてもいる。
間違いなく戦力にふさわしいだろう。些か容赦がなく陰惨ではあるが、待ち望んでいた三女神の末の妹との邂逅に高揚していた。前線出征の心強い仲間だ……。
一方のオロルは、まるであくびを噛み殺すように眠たげな声で続けた。
「さあ、では改めて、この刻印の真贋を」
ガントールは促されるままに傍へ寄り、オロルの掌にそっと手を添え、視線を落とす。傷だらけではあるが、戦闘後の今なら魔力が残光となって残っているのではっきりと見える。
そこには精緻な紋様が小さな円環を象り、それぞれが互い違いに組み合わさりながら大きな円環の中に納まる精巧な紋様が描かれていた。篝火の消えた夜の薄闇の中で燐光を発し、手首の方へ伸びる鎖状の筋が螺旋を描きながら肘へ続いて襯衣の袖の内側へ消えていく。
なるほど、真贋。間違いはない。皮膚の奥にあるいくつもの失敗は積み重なって階層をつくり、膠原質の透けた掌に埋め込まれている。一番上に刻まれた印こそ、代々受け継がれた三女継承の印そのものに違いない。たとえ躰にいくつ偽物があろうとも、いや、偽物に塗れているからこそ唯一光を放つものが際立つ。彼女は紛れもなく、本物の三女継承者だ。