142話 意味なんかない
『抜刀・輝夜』
鍛え抜かれた艶やかな黒鉄の刀身が、流麗な運筆の軌跡のように閃く――スークレイは縦横に駆け抜けたセリナの幻影を追いかけるのが精々。回避もできぬままに胴を斬られたと感じた。たなびく光の尾が視界の下、胸を通過していたからだ。
それどころか躰のあらゆる箇所に光の筋が通過している。
痛みは未だ襲ってこない……奇妙なむず痒さに困惑する。
「動かない方がいいよ」セリナは告げる。「余波鋭鋒……はシェークスピアだから竹取物語とは関係ないけども」
「な、何を言って――」
「おっと、動かない。……わかるでしょ? 今動いたら二人とも胴が真っ二つだよ」
セリナの宣告にスークレイもカムロも押し黙る。身体の異変は察していた。
少しでも動けば胴が、腕が、首が、たちまちに血を噴き出して落ちてしまいそうだった。セリナの剣捌きは切れ味が良すぎるあまり、刃が通過した後の傷口同士がくっついているのだ。自然治癒で癒着するまで二人は動けない状況にあった。
石のように固まる彼女たちの間、余裕たっぷりに歩くセリナは、胸に刺さっていた細剣を引き抜いた。
開いた傷跡が塞がるまでの数刻、細剣の持ち主であるカムロを見つめる。生殺与奪は今、セリナの手中にあった。指で頭を小突くだけでカムロの首は落ちるだろう。或いは意趣返しに、細剣で胸を刺し貫くことだってできる。
呼吸一つ、心臓の鼓動一つさえ神経を尖らせる絶体絶命の危機に、二人は唇を噛みながら、身動ぎ一つしなかった。
セリナはカムロを睨んだ後、結局手を出さずに素通りしてスークレイの方へ向かった。
カムロは安堵と共に動揺した。――この期に及んで、私を見逃すだと……!?
「離せるかな」これはセリナ声。スークレイに向けられた言葉だ。
スークレイは眼球のみをセリナに向ける。意図を汲もうと努めた。
セリナは天秤を指差してもう一度言う。
「これ、離せる?」
天秤剣を寄越せと言っているのだと理解して、スークレイはぐっと瞼に力を込めて逡巡した。剣を手放してしまえば勝敗が決まる。……いや、既に決まっている。カムロとスークレイは負けたのだ。
剣を渡せば殺されない命は助かる。抗えば死が待っている。重要なのは屈するか否か……矜持の問題だった。
「もうおしまいにしよう。何度も言ってる通り、戦う意味なんかないよ」
幾許かの躊躇いの後、スークレイは決意を固め左腕に力を込めた。
「それでも……っ!」
「わっ、馬鹿――!!」
セリナは予想していない反撃に目を丸くして驚いた顔のまま袈裟斬りにされる。噴き出す鮮血の向こうでスークレイの身体が瓦解していくのが見えた。
セリナにとって、これは誤算だった。
まさかこの期に及んで反撃するとは思っていなかったのだ。
セリナとて得物を振い彼女等の身体を切り刻んだが、それはあくまでも脅し。戦闘を終わらせるために振るった剣閃であり、大人しく降伏してくれれば切り傷は後も残さず繋がるはずだった。
スークレイの抵抗は、つまり自決と同義である。
肋骨を圧し斬られて、腑を溢しながらへたり込むセリナは、痛みも忘れてスークレイを見上げていた。
「なんてこと……!」
カムロは怒りにかられて呪力を練るが、縮地によって現れたウツロが射線を遮る。ぽっかり空いた襟首の虚から、それでも「セリナに手出しは出せまい」と睨んでいた。顔がなくとも『睨んでいる』と確信できる凄みがあった。
「スークレイ!!」カムロの叫ぶ声は一帯に響いた。
スークレイは自らの膂力によって肩の傷が開いて自壊し、剣を握った左腕は義手の根元から飛んでいく。不恰好な弧を描いて虚空へ舞う。引き伸ばされた刹那の光景、全身に走る細い切れ目から赤い染みが広がっていく。
――あぁ……、お姉様……。
「所詮私じゃ、吊り合わないわね……」
スークレイは諧謔に笑み、血を咳く。
目を閉じた彼女の顔。胴の上に乗せられただけのスークレイの首は少しずつ滑り、切れ目から血が滲み玉となって滴る。
このまま崩れてしまうかに思えたそのとき――
「……こんなに重いとは、知らなかった……」
ガントールの声が聞こえた。
両手を伸ばし、斥力を手繰って多方面からスークレイの体を支え、人の形に押し留めている。
「ガントール……! 目覚めたか!!」オロルは思わず声を張り上げてしまった。
スークレイが命を落としてしまうのを歯痒く見届けることしかできなかったが、おかげで首の皮一枚繋がった。
快哉を叫ばずにはいられない。この争いで誰かが命を落とすなど、誰も望んではいないのだ。
「参った……でいいのか?」
ガントールの問いにウツロとセリナは首肯する。
「頼む、妹の止血と治癒を――」
「任せろ」頼まれるより早くオロルは駆け出していた。
斥力によって形を繋ぎ止めているスークレイは、首を繋げられ、失血を癒されると目を開いた。死を覚悟して意識を失ったはず……そう考え目を瞬くと、オロルの向こう、姉がこちらを見ていることに驚いた。
「姉、様……?」
意識を取り戻したと見て、ガントールは胸を撫で下ろし、がっくりと項垂れる。疲労とは別。心底から安堵したようだ。
「何があっても、お前を失うわけにはいかない」
「姉様、ごめんなさい……私はただ、姉様の代わりになれたらと……それでなくともせめて右腕になれたらと、思ったのです」
無念に嘆くスークレイの言葉に、ガントールは首を振る。
「私の右腕になんてならなくていい。私だって、お前の左腕にはなれない」
「でも……」スークレイは食い下がろうとしたが、ガントールは言葉を差し込む。
「離れていても私達は二人で一つだ。天秤を使って私が守りたかったのは正義だけじゃない。何よりお前が大事なんだ」
その言葉にスークレイは矢で撃たれたように身を震わせ、天啓を受けたが如く静かに涙が溢れた。
双子の姉妹にしか通じ合えない会話のやり取りに、オロルは突然「なるほど」と訳知り顔で唸った。
「……え、どう言う事?」
例に漏れず状況に理解が及ばないセリナは説明を求める。散らかっていた腑は既に腹に仕舞い込まれ、龍体は治癒が進んでいた。
「オロル様は忙しいので、ここは私が」と、これはカムロ。戦闘の勝敗がつき、自ら治癒術式で切断面を塞いだ彼女は、ガントールとスークレイの仲に入らずこちらへとやってきた。
セリナは「よくもまぁのこのこと」と半目で睨むが、そこに先程までの敵対心はなかった。カムロは膝をついて頭を下げた。
「先程の戦闘……あなた方が不殺の姿勢を示したこと。何よりあなた方の意志によって命拾いをしました。敗北を認めます。これ以上抵抗致しません」
「……じゃあ聞くよ」
むくれ面で胡座を描き、セリナの得物は霧散した。停戦の姿勢に乗った形でカムロに説明を促す。




