141話 望月の明るさを、十合わせたるばかりにて
ガントールもスークレイも、きっとカムロも、本心では神殿に不信感を抱いているのだろう。だがそれ以上に禍人を憎むように仕組まれていて、両者は断絶されている。
彼女達は戻れないだけなのだ。これまで正しいと信じて歩んできた道が間違っていたとわかっても、引き返そうと振り向けば来た道は崖となり途絶えてしまっている。後戻りはできない。だから先へ進む。
そうやって進みながら、まっすぐに歩けているのかわからなくなり、『右に進めば元の道に合流できるはず』とか、『左に進めば光が見えるはず』と暗闇を彷徨うのだろう。
だが、今回ばかりは通用しない。
翼人の築き上げた過ちの歴史は、いわば脆い地盤なのだ。その上にどれだけ几帳面に正しさを積み上げても傾いてしまう。帳尻合わせを試みたところで必ず破綻する。……それが今なのだ。
そんなウツロの声ならぬ声が聴こえたようにカムロは視線を向ける。反抗的な態度を見咎めて剣呑な雰囲気が伝播した。
互いに相容れないことを再認識し、これ以上言葉はいらないとそれぞれ構える。
戦闘再開は三名それぞれの詠唱が重なった。
「術三双子座!」
「月輪・竹取……!」
「下方、常々《じょうじょう》っ!」
ひとときの静寂から一変して状況は再び混迷を極めた。
まずカムロの詠唱が発動。これは自身の身体強化の類と見えた。呪力がカムロの内部へ向かい、腰に携帯した細剣を引き抜く。
セリナとスークレイの術の発動はほとんど同時だった。セリナが亜空間から燐光を放つ竹刀を抜剣したとき、スークレイの下方斥力がのしかかる。
重力の効果範囲外にいるオロルは状況に目を光らせる。助太刀は出来ないがせめて魔呪術の分析だけでもしておこうという考えである。
「『天秤座』に『双子座』……そうか……!」
なぜ二人がこの場に出向いているのか、オロルは理解した。
「ガントールに近しい者というだけではない。互いの素質と才能を補い合うことで長女継承の力を再現しておるな」
初めにカムロが唱えた術、『天秤座』。これはガントールがウツロをねじ伏せたときに巻き添えを喰らわないための術……つまり斥力魔法の無効化。確かにカムロは強力な重力の効果範囲内で涼しい顔をして立っていた。
そして今唱えた『双子座』。ガントールとスークレイの双子姉妹に準えた術であり、味方の魔呪術を底上げしていると見ていい。長女継承の力を出しきれないスークレイを支える意図があるようだ。
血を分けた双子の妹が姉の代わりに剣を持ち、足りない分はカムロが補助しているという構造となる。
スークレイ側は効果の漸減した斥力を改めて唱え、『常々』と念押しした。裏を返せば念押ししなければ持続できないほどに練度が甘いということ。二人合わせてもガントールの実力には及んでいない……オロルは勝ち筋を見出し、ウツロの勝利を祈った。
斥力の内側、のしかかる重力にセリナはたまらず膝をつく。
「ぐっ……!」
身を屈めて顔を上げているのがやっとだった。背骨が軋み、頭蓋を押し潰されるような圧迫感に涙腺から知らず涙が漏れる。
目の前にいるのは本当の長女継承ではないはずなのに、それでも全身が地面に引き寄せられる力には抗えない。
「災禍の龍、このまま去ね」
カムロは細剣を構え、セリナの額めがけて突き出した。衝撃に弾かれるようにのけぞる妹の姿にウツロは動揺するが、セリナは剣突を牙で受けていた。紙一重の防御である。
「往生際が……!」
カムロは剣を引き抜き、セリナの頬が裂ける。痛みにひるんだ背に対し無慈悲にも剣を突き込む。今度こそ細剣は刺さった。
うずくまっていたセリナの背面から胸にかけて鋒が貫き、地面に串刺しとなる。
ごぷっ。と、粘度の高い水音が漏れ聴こえた。
心臓を傷付けたか、セリナの口からは血が噴き出す。間歇泉の如く吐血し、下方斥力に従ってぞっとするほど大量の鮮血が滝のように落ちる。
――セリナ!!
ウツロは我を忘れて叫んだが、声は誰にも聴こえない。
押し潰される斥力の中で踠くように這い寄り、力無く頽れるセリナからカムロを追い払う。斧槍を振り回す気迫に鬼が宿っていた。
――死ぬなよ!! ……セリナ……?
肩を揺すられたセリナは煩わしげにウツロを見つめ返していた。血色の失せた顔だが瞳に宿った光は消えず、むしろ爛々《らんらん》として、小さく笑む余裕すら見せた。
「へへっ……龍人を舐めるなってね……」
先手を譲り痛手を負ってでも作り出した隙……絶好の機会をセリナは待っていた。
龍体を犠牲にして詠唱に集中する隙を稼いだのである。
血を咳き上げ引き攣る肺を抑え、セリナは目を閉じた。
気を失ったのではない。言葉を汲み上げているのだ。
「望月の明るさを、十合わせたるばかりにて――」
セリナは唱え、背中の羽を広げる。
翼膜をぴんと張り詰め、両翼が左右揃って円を模るとセリナの頭上に天輪が生じた。詠唱は続く。
矢を取り立てむとすれども手に力もなくなりて、萎えかかりたり。
立て籠る所の戸、則ち、ただ開きに開きぬ。
天人の中に、持たせたる箱あり。
今はとて、天の羽衣着る折ぞ、君をあはれと思い出でける。
「――『天輪・羽衣』」
放たれる光の残像が暮れの空に上り、十の満月となって戦闘領域を取り囲む。
月は輝きを増してこの場に立つ者たちの影を焼き消す。見上げるカムロとスークレイは月光の煌めきに目を奪われ言葉もなく立ち尽くした。
セリナの頭上に生じた天輪は、その内側に亜空への門を開き、冷気のような魔力の霞が漏れ出した。セリナは両足で立ち上がり、背を反らす。胴にはまだ細剣が貫かれているが、出血は止まっていた。
「まずはうざったい重力魔法を」
そう呟いて、頭上の天輪が波紋を広げた。するとウツロの身体は途端に軽くなる。見上げるウツロには何が起きているか分からなかったが、亜空間が斥力を呑み込んで無力化したのだ。
カムロは「まずい」と青褪め、策もなく魔弾を放つ。
のしかかる重みから解放されたセリナは、天輪に翳る眼でカムロを睨む。冴え冴えとした三日月の笑みだった。そのまま次の詠唱へ続く。
「抜刀――」
竹取を天へ突き上げ、くるりと手首を回して空に円を描いた。滑らせた竹取の切先によって切り抜かれた円は、薄皮のように時空の皮が剥けて、その向こうに二つ目の亜空を開く。
これまでのどのような魔呪術とも異なる現象に誰もが唖然としていた。セリナの繰り出す術式は詠唱に含まれる物語がまるで推察できず、発動する現象も余人の理解を超えていた。それ故にカムロもスークレイも対応できない。
セリナは転移者。住む世界の違う人間なのだから、当然である。
とろけた濃密な闇の次元……その裂け目から現れたのは無数の腕であった。円の内側から触手のように幾本もの手が伸ばされ、まるで月の都からの迎えのようにセリナの掲げた竹取に絡み付く。燐光を纏う竹刀を覆い隠すように、握る手が重なり、がっしりと掴まれ動かぬものとなった。柄を握っているセリナは一本の剣を多数の腕相手に取り合う形となり、得物を引き寄せる力がこもる。
その様子を見たカムロは、「ここしかない」と判断した。よくわからないが武器を絡め取られている。今しかない……!
「ここで仕留める!」
カムロの荒い指示に従い、放たれる魔弾に紛れてスークレイも懐へ飛び込んだ。しかし距離を詰めながらもスークレイの直感は危険を感じ取り、全身の産毛を逆立てていた。安易に前に出てしまった軽率さを呪った。
カムロの放つ断続的な魔弾の雨に援護されたスークレイ。目の前に立つ龍の娘は、亜空の腕供と引っ張りあっていた得物を一息に引き抜いた。握り込めて離れない竹刀の部分と柄の間に激しい火花が散り、竹取の中に隠されていた本来の刀身が現れる。
「――輝夜」




