140話 手段を選べる立場じゃない
異存はないかと問うより先に、ガントールが膝から崩れ落ちた。これにはオロルもウツロも思わず駆け寄ろうと身を乗り出し、睨む面構えも忘れて肝を冷やした。
「……姉様」スークレイの慕う声は、敵前であることを忘れたかのように優しい。「どうかもう、無理はしないで……」
腰を降ろしてガントールの身を落ち着かせ、岩壁に背を凭せ掛けると、握っている剣に手を添えてそっと指を解していく。
「姉様が背負ってきたものの半分……私が預かります」
最後の気力で握りしめていた柄を取り上げ剣を奪われると、ガントールはがくりと首を垂れて気を失った。
スークレイは姉の頬を撫でて微笑むと、決然と表情を厳しくしてカムロの横に立つ。双子の妹として、継承者代理を務め天秤を握る。
正義も大義も、ここには無い。
眼前の敵に恨みも無く、ムーンケイの戦闘は始まる前から破綻していた。
だが後に振り返ってみれば、確かに無益で大義のない戦いではあったものの、それ故に個々が信ずるもの、護りたいもの、その矜持が泥臭く激しくぶつかり合った戦いだと言えた。夜明けの前が一番暗いことと同じように、先の見えない混沌とした争いの果てに、黎明が近付きつつあった。
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ムーンケイ下層、宵の口。
まだ明るい薄青の空には半月が浮かび、西の方では背の高い雲が夕日に照り映えて赤く燃えている。茜色から藍色へ移ろう色彩は見惚れてしまうほど目も綾なものだった。
季節は秋に近付きつつあり、肌を撫でる風は火照りを覚ます清涼さで殺気立つ四人の間を静かにすり抜けていく。
首の無い鎧の姿で斧槍を構えるウツロ。
その隣で鱗を逆立て尾を揺らすセリナ。
向かい合う形で鋭く睨むスークレイは姉の天秤剣を握り、カムロは先を狙い詠唱を繰り出した。状況は動き出す。
「占星――『術七天秤座』」
顰めた声をウツロは聴いたか、斧槍の鋒をカムロに定めて縮地で飛び込む。
ウツロはこの詠唱を先程も耳にしていた。ガントールに倒される前、カムロは同じ言葉を唱えていたのを覚えている。この詠唱の後にウツロの優勢は崩された……阻止しなければ……。
懐まで潜り込むと同時、踏み込んだ脚を踏ん張り、後ろに構えた斧槍で下弦の弧を描き切り上げる。
下顎を狙った鋭い一撃、カムロは首を反らせて地面を蹴り回避。勢いをそのままに宙返りをして体勢を整えつつ、空いている両手で印を結ぶ。
――くそ……躊躇ったか……。
追いかけるウツロは内省していた。少なからず顔見知りであるカムロを相手にしているせいで踏み込みが浅かった。いや、そもそも下顎ではなく胴を切るくらいに深く踏み込んでもいいはずだ。
仕留める覚悟を固めなければ神殿の野望は砕けない。だが、これ以上誰かを殺すのは、本当に正しいのか……?
斧槍を再び後方に構えたウツロを相手に、カムロは中指と親指をつまむような手の形でそれを上下互い違いに重ねて勾玉を型取る。後方へ着地とともに呪術を展開する。
「輾」
言葉と印。その二つから構成される術。
ウツロは景色が逆さまに映り、歪んでいくのを感じた。鎧の頑丈な手足が練り飴のようにぐにゃりを曲がる感覚に支配される――が、しかし。
斧槍を横回転に振り回し攻撃を継続する。攻めに転じようとしていたカムロは危うく鼻柱を切られるところであった。
「……こいつ、呪術を弾いた……!」
カムロを守るため斧を受けたのはスークレイである。剣の柄を両手で握ってなんとか押し返す。膂力はガントールに及ばず、スークレイは体勢が崩れた。一合の後に生じた隙をセリナが狙う。
ウツロは『いけ』とも『殺すなよ』とも思いながらセリナを見ていた。相反する二つの感情が鎧の内側でせめぎ合う。
ここで誰かが命を落とせばきっとガントールとは手を結べなくなる。それだけではない。例えここで立ちはだかる者がカムロやスークレイでなかったとしても命を奪うのは悪手だろう。
――これ以上殺してなんになる。死体を積み上げた山に新しい正義の旗を打ち立てたところで、誰がついてくるってんだ……。
「下方!」
スークレイは苦しげに叫ぶ。どん。と地面が押し固められ、ちょうど飛び込んでいたセリナは受け身をとれず重い空気の層に叩きつけられる。重力を操る長女継承の権能、スークレイの攻撃だった。
「まさか、力を使えるじゃと……?」離れたところから戦闘を見守るオロルは対岸のガントールを見る。スークレイが斥力を操ったことが信じられなかったのだ。
ガントールは今も意識を失っている。であればスークレイは継承者の印を受け継いだ……? 例え瓜二つの双子でも別人には変わりない。なぜ長女継承の権能を扱える……。
「……また神器……狡い力ばっか……!」
セリナは不満を吐きスークレイを睨む。強かに打った顔面が熱かった。鼻の奥で血が伝うのがわかる。肩で息をするスークレイの睨み返す表情に余裕はない。
「狡くても構わないわ! ……守るための手段を選べる立場じゃないのよ」
柄を握る手から血が伝い落ちる。見上げる形となったセリナはふと視線に入ったスークレイの出血に意識が向いた。何の負傷か心当たりはないが、剣を握る左腕、籠手から肩へ遡上して袖の隙間から覗く二の腕から滔々《とうとう》と血を流しているのが見えた。きつく嵌め込まれた鉄の腕輪を見る。
「あんたそれ……義手――」
「目障りよ!」
不躾に見つめるセリナを咎めるようにスークレイは剣を振るった。寸手で受け止め、衝撃を逃すため吹き飛ばされるままに後退する。翼を広げふわりと着地すると、乾いた鼻血を腕でこすり落とす。
「……勘違いしてるんじゃないの?」セリナは言う。「私達はガントールを傷付けたいんじゃない。神殿から守る必要があるからここまで来たの。今からでも手を取り合えるんじゃないかな」
「いいえ。勘違いなんてしていません」スークレイは突っぱねる。「守りたいのは姉と、姉の打ち立てた正義よ」
セリナは眉を吊り上げる。正義だって?
「その正義が……間違いだって言ってるの。神殿は人の道を踏み外してる。だから私達が――」
「必要ない」スークレイは拒絶する。「神殿が正義でなかろうと関係ないのよ。私は姉が守ったものを守りたいだけ」
「……その言葉、冤罪で殺された人に言える……?」セリナの声が震えている。独りよがりな論理に対する唖然と、遅れて燃え上がる怒りと悲しみ。複雑な感情を内に押し留めた声だった。
一人の禍人――ニァルミドゥ――として、戦場に斃れた同胞の無念を背負い彼女はこの場にいる。呑みきれぬ不満をそれでもと呑み、世界を正すために行動しているのだ。スークレイの言い分が腹に据えかねるのも当然である。
「神殿がもし悪であるなら、貴女たちを倒した後に神殿も成敗すればいいだけの話よ。少なくとも禍人に助けてもらう筋合いはないわ」
肩を怒らせていたセリナの温度が、吐き出した息とともに急速に冷えていく。
「……そうだね。筋合いはない」セリナは諦観の籠った声で同意する。あくまでも理性を保つことで正当性を主張したいのだろう。「でもね、私たちは翼人に用があるんだよ。性根の腐ったやつの顔面に一発叩き込まなきゃ気が済まない。利害の一致はあるでしょ。『共に黒幕を打ち倒そう』……みたいなさ」
セリナの言葉にスークレイもカムロも本心から困惑した。なにも底意地わるく惚けているわけではない。この世界には創作物の中にあるようなご都合的な共通言語はないのだ。敵味方が力を合わせる事例などなく、また巨魁を指す黒幕という言葉も通じない。
「共に黒幕を倒す……?」
冷めた反応にセリナは心挫けてウツロに振り返る。……私間違ったこと言ってる?
ウツロは憐れむように胴を横に振った。
……結局、人の闘争は醜いものなのだろう。――ウツロはしみじみそう実感した。はじまりに掲げていた正義や大義はいつしか失われ、憎しみが憎しみを生み出し、敵意さえ形骸化してしまっているのだ、この世界は。




