13話 まさか、戦う気か?
三女神の力を宿そうと試みる度に掌は爛れ、癒えるのを待たず次の陣を刻む行為は皮膚を変質させた。傷痍は前腕まで拡がり、本来持っていた柔らかな乙女の肌はささくれた硬い鱗状に変異してしまった。
言わずとも継承者の能力は容易に再現できるものではない。
文字通りの奇跡。神の力なのだ。
たとえオロルが優秀であろうと、神の力を欲したところで手に入るわけはない。途方もない無為の時間を浪費し、ついには禁忌に手を染めさえした。
そうして全てが失敗に終わったとき――正確にはオロルの万策が尽きたわけではなく、次の試みを思案する間でしかないのだが、少なくともこれまでの試みが全て失敗に終わったとき――その日が訪れた。三度目の魔術陣現出……。
オロルの話を聞き終え、ガントールは掛けるべき言葉を探していた。
己の才覚に対する揺るがぬ妄信。
禁忌と知りながら強行する狂気。
変質することすら顧みない執念。
そのどれもがガントールの理解を超えていた。
刻印は天上より与えられるものだ。まさか自ら勝ち取りに行こうなんて発想は、考えもしなかった。
言葉が出ない長女継承の姿を見て、オロルはどこか満足そうに目を閉じる。その時、遠巻きにいた民衆がそぞろにざわめき、どこかひやりとした風が香った。海の臭いだ。
「……なにか来た」
ガントールが暗闇を警戒すると同時、誰かの叫びが場を凍りつかせる。
『トガが出たぞ!!』
けたたましく鐘を打つ音が辺りに響き、家の中にいた者達は血相を変えて外へ逃げ出す。警鐘は警鐘を呼び、ムーンケイ一帯へ広がった。駆け出す者は一心不乱の有り様で、宴の席も構わず蹴飛ばして振り返りもしない。
ガントールとオロルは駆け抜ける人波を見送り、さてと互いに目配せした。
トガが出た。新たな継承者を狙う敵が、現れたのだ。
「話は後だ、ここは私に任せてくれ」ガントールは杯をぶちまけて立ち上がる。
「わしに護衛なぞ必要ない」
「まさか、戦う気か?」
「当然じゃ。さもなければこの腕は切り落としたほうがましじゃろうて」
オロルは玉座の上に立ち上がると敵の姿を探した。先程までの酩酊もどこ吹く風で、その瞳に揺らぎはない。
遠方を睨み呟いた。
「手負いじゃな」
「視えるのか?」
ガントールの問いに答える代わりに、オロルはトガの状況を伝えた。
「背中に漁船の銛が突き刺さっておる……空の陣を頼りにわしを追ったか、最初は島を襲い、その後にここへ来たようじゃな。さっさと片付けるぞ」
オロルが指をさしたのは通りの先に広がる暗がりだった。潮の臭いを纏う敵の影をガントールも認める。ムーンケイ下層と島嶼部を結ぶ港から現れたそれは、里に迷い込んだ熊のような姿だった。ただ、その大きさは熊の倍はあるだろう。ずんぐりとした巨体はのそりのそりと四足歩行で近付いている。弓なりになった背の頂点は、通りに並ぶ家々と肩を並べる程だ。人気のなくなった通りを自身の縄張りであるかのように悠然と歩いている。全身の体毛は重くじっとりと濡れていた。
「あの図体で港の櫓が鐘を鳴らしてないって、どうやってここまで来たんだ……」
「ふむ」オロルは興味深そうにトガを眺める。「確かに騒ぎが小さいな」
この魔物は巨体でありながらここまで人に見つからずにやってきている。忍び寄る狡猾さを持ち合わせているということだ。でなければもっと早くから警鐘は鳴り響き、港から人が避難してきたはずだ。
そんな疑問に対して、オロルはすぐに推理した。
「あの尾を見よ。海を渡るための鰭がある。どうやら河川を遡上して身を隠していたのじゃろう。港の櫓を掻い潜り、わしらに接近したようじゃ」
「それなら被害は軽微かな」
「そうとも言い切れん」オロルは指をさす。
トガが濡れているのは海水のせい――だけではない。海水と、血に塗れていた。
身を潜めることをやめたトガは、下層の集落に飛び出し人々を襲ったようだ。道中に立ちふさがる命も、逃げ惑う命も、見境なく食い散らかしながらこいつはここに現れた。
「許せないな」
ガントールは扼腕して奥歯を噛みしめる。この塩辛く饐えた臭いは貪った罪の残り香か。
「許せんよのう」
オロルは飄々と続ける。取りこぼした命を振り返ることなく。
「――さて、わしの初陣じゃ。見事に華を添えてみせい」
ガントールは目眩がする程の激情を覚えながらも己の不覚を律する。オロルの無情なまでの肝の座りようは共感できないが、判断に誤りはない。直ちに討伐すること。犠牲者を増やさないことが重要だ。
敵を眼前に対し、ガントールは油断なく外套を脱ぎ捨て、背剣していた得物を構えた。鈍く金色に煌く剣である。
その剣は鋒が平たく、刃を設けていない特殊な代物だった。突き刺すことができない剣。一見して戦闘には不向きなこの剣こそが長女継承者に与えられる神器、天秤であった。
敵は咎と呼ばれる存在で、その外見はてんでばらばらな獣の四肢を寄せ集めたような魔物だ。その姿に種としての規則性はなく、あるものは獣、またあるものは蟲のような姿をしている。その大概は出来損ないのような醜い外見であり、冒涜的ともいえる姿である。
今、ガントールとオロルが対峙しているものもまた尋常ならざる化け物に他ならない。
山の稜線のように盛り上がり丘を作るトガの背筋には脊椎らしきものが露出しており、頭部から骨盤を繋ぐ背骨が黒い毛並みの上から甲羅のように覆い被さっている。白い肋骨と黒い毛皮が縞模様を描き、その上から篝火を朱に照り返して、二人の前に立ち塞がる檻のようだった。
発達した前脚は丸太のように節くれだち、捻じくれた鱗が棘のように変質している。後ろで揺れる尾部は全長の半分を占めるだろうか。形状は平たく、オロルの指摘通り鰭の役割を果たすのだろう。海を渡って来たのなら、その尾鰭の筋力は陸に上がってなお猛威を奮う得物と視えた。振り回す様はまさしく巨大な斧だ。
しかし、オロルが手負いだと指摘した通り、その背には数本の銛が深々と突き立てられている。血は止まっているらしく、トガは痛がる素振りもない。太い首に支えられた強靭な顎が涎を垂れ流しながら憤怒に牙を剥いている。
血走った形相はひっくり返った白目のままにオロルを射抜いている。昼の魔術陣現出から島嶼部を狙い、ここまで追いかけてきた執念深さはかなりのもの。ガントールは深く息を吐き、酔いの残滓を確かめた。油断できる相手ではない。
「け、継承者様、急ぎ避難を……」
勇ましくも逃げずにいた司祭がこわごわ言う。
「なんじゃまだ居ったのか、お主こそさっさと逃げよ」オロルがぴしゃりと言い捨てる。「女神の地位は奉られることに非ず。……ここはわしらの領分じゃ」
司祭はこれ然りといった顔をして、ためらいながらも恐れをなして逃げ出した。若い女が魔物と対する道理はないが、それが継承者であるならば話は別だ。
先程までの人集りは蜘蛛の子を散らすように捌け、後には二人の女と一匹の化け物が残された。
先手を仕掛けたのはトガの方。オロルが玉座の階段を降りて間合いを詰めるとき、軋む足場に意識を向けて僅かに瞳が爪先に向けられた。しびれを切らしたトガはそれを好機と見たのだろう、土を蹴り、雷のような勢いで飛びかかった!
だが実は、オロルは誘いこんだのだ。わざと視線を外してトガに間合いを詰めさせた。手練であるガントールにはそれがわかった。警戒と油断の波を作り、わずかな視線の動きをトガに見極めさせた。初戦とは思えぬ豪胆な罠。オロルは外套の内側に包み隠した手に呪力を練り、後の先を取らんとする。
このまま討ち取れるのか……いや――
「まずい……!」
トガとの距離が近い。オロルの経験不足か、それとも慢心か。
ガントールには、彼女がわずかに間合いを誤ったように見えた。




