137話 海へ帰れる
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「のぅ、親父よ」
翌る日の明け方。
浜辺には見る影もなく浮腫んでふやけたフリウラの水死体が打ち上げられていた。下肢は鮫に食いちぎられたらしく、背骨の途中からなくなっていた。臓物を失くした空洞を肋骨が支えて、色素の薄くなった皮膚が提灯のようだった。
わしは島の誰よりも早くそれを見つけ、眠っていた父を起こして浜へ連れて行った。
父はその小さな遺体をそっと覗き込み、すぐに彼であると気付いた。そしてここに呼び出したわしに対して同情の顔を向けた。
「おぉ、なんということだオロル。辛かろうに。
いいか、海には化物がおる。……抗うことができんくらいに強い化物だ。それはこうして気紛れに人を襲うのだ」
「……そうじゃな。その化物にフリウラはやられてしもうた」
父はわしに心から同情し、胸に抱くと髪を撫でた。
わしは無感動に父の匂いと潮風を感じ、肩越しに海原を眺める。
「悲しいが、島に生きる儂等は受け入れるしかない」
父は分かったようなことを言う。
だがわしは知っている。フリウラを見殺しにしたのは父だ。
「受け入れるしかない、か……」わしは可笑しさが込み上げて口角を吊り上げる。そして手袋に隠した手を晒した。「親父よ。それであれば受け入れてくれるな。化物が恨めしそうに見ておるぞ」
「オロル……? なんだその手は――っ!?」
爛れて変質した皮膚に覆われた赤黒い化物は父に襲いかかった。
体勢を崩して背中から倒れる父を見下ろしながら、見開かれた真丸な眼と向き合っていた。
浅瀬に倒れて全身をしとどに濡らし、砂を掻いて踠く父は、化物に首を噛まれて海中に引き摺り込まれてしまっている。
息が出来ず苦しかろう。
助けを求める視線に、わしは応えない。
父が彼にそうしたように、化物に殺されてしまう様を眺めていた。
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海に棲まう化物は、あれ以来オロルの両手に宿っていた。
オロルは呪われた運命から逃れるため、二度目の人生を継承者となるべく努力した。時を遡る以前の経験値およそ六十年分がその努力を底支えして、オロルは希う果てに三女継承の座を勝ち取った。
時の流れは残酷であること。
後悔にやり直しはできないこと。
積み重ねた努力のみが報われること。
三女継承に選ばれる前から、オロルは時の概念をよく理解し、完成していた。
……そして、少し壊れてもいた。その理由が手袋の内側にある。
ウツロによって穿たれた奈落の穴の中、落下する体は思わず空へ手を伸ばした。いつか父がそうして助けを求めたときのように。
手袋は風に揉まれて取り払われ、その下に隠していた化物が姿を現す。
「その腕――」
「――貰った!」
二人の振り下ろす剣閃が化物の首を刎ね飛ばした。すぱっと切れ味よく刃が閃いた後には骨ごと両断され、血飛沫が舞う。
焼けるような痛みの中で、オロルは呆然と欠損を認めたが、仕方ないと肩を落とし、どこか満足そうに空を見上げる。
――今度はわしが倒される側に回ったか。……それも血を分けとらん兄妹同然の二人が成し遂げるとは……。
ウツロとセリナ、この二人の間柄は奇しくもフリウラとオロルに似ていたのである。全くなんという因果か。
柱時計は霧散し、意識を失った小さな体をウツロが抱き止める。まもなく穴の底、硬い地盤に着地した。
「オロル!!」ウツロが呼びかける。「これでいいのか……!?」
身を揺すられ、オロルは疲弊した様子で目を開く。
憎まれ口でも飛び出すかと思ったが、オロルは「あぁ」と頷いた。
「……上出来じゃ……どこへでも連れて行け……」
宣言通り腕を切り飛ばし、刻印を奪うことで継承者としての権能を剥奪する。
力を失ってしまえば、もはやオロルは神殿の兵戈ではなくなり、戦闘の決着が着いたということになる。……が、そのような形式だけの使命、いくらでも無碍にできただろう。やはりこの一件は二人に釈然としない思いが残った。
「……結局どういうこと? なんで私達は戦っていたの……?」
状況を理解できないセリナが不満げに言問顔をする。三女継承は賢人種の中でもとりわけ利口な者が選ばれると聞いているが、それであればやはり戦わずとも話し合いで解決できたとしか思えなかった。何より勝敗が腕の先を切り落とすだけで済むのなら、尚のこと差し出してくれればそれでいいはずの話。痛い思いをするのは全く無駄ではないか。
しかし、オロルにとっては違うのだ。
「化物退治……わしには必要なことなのじゃ……」
セリナは意味を掴みかねてウツロを見る。説明を求められたところでウツロも応えられなかった。
二人は戦闘に決着が着いた今でも、化物がなんなのかわかってはいない。それでよいのである。
オロル自身、神殿には不信感を抱いていた。しかし、これまでに支払った犠牲は多く、継承者となり既に引き返せないところにいた。亡き彼との約束、積み上げた歳月、遡ってまで勝ち取った執念を、今更捨てることができなかったのだ。
だから誰かに止めてもらうしかなかった。死力を尽くし、ウツロに敗北を喫することで、初めてオロルは納得できる。
「本当はわかっとる。付き纏う運命という呪いも、この手に宿っていた化物も、全てわし自身じゃと……。
これはわしの罪の象徴であり、わしがわしを許すために必要なものじゃった。……じゃが、もう要らぬ。もう、わしは救われた……」
手首から先を断ち切られたというのに、オロルはなぜだか晴れやかな表情をして目を閉じた。
「これでわしは……海へ帰れる……」
ウツロに抱えられたまま眠りに落ちたオロルに対して、セリナは到底理解できないと渋面をする。
「……めちゃくちゃだねこの人……」
「オロルはいつもこうだ。慣れてくるとそう悪くない」
ウツロの返答に辟易した様子でセリナは溜息を吐き出した。「こいつらには着いて行けない」と言外に表明している。
兎も角これで一段落。穴の底に転がる変質した三女継承の手をセリナは拾い上げて、捨てておくのも悪いと手荷物にした。治療するなら必要かもしれないと考えた彼女なりの善意であった。
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[16 汚れた血 完]
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