136話 断じて否
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フリウラはわしの手を引いて、夜毎誰もいない浜へと連れ出した。
日中は島で軟禁状態であったわしにとって、家族は鎖を意味し、フリウラは錠を解く鍵のような存在であった。
彼と過ごす夜は自由で心地よいものだったし、停滞していた勉学も調子が良くなった。当時のわしにとっては不思議なことに思えたが、『根を詰めてはよくないのだ』と、彼は気の抜けた笑顔で語った。
万事順調に思えたわしの人生に、神は再び試練を与えた。
十二の夏。フリウラは帰らぬ人となった。
島に住む者は皆、彼の死を残念に思ったが、悲しみに暮れる者は少なかった。それはこの島に住む者が海と共に生きているからだ。
男は十を数える頃には一端の働き手として船に乗り、漁をする。フリウラも長となるべく勉学に励む傍ら、週に二度は手網を持って海へ出ていた。……誰であれ海に落ちてそれきり帰らないことは珍しくなかった。
それが偶々、フリウラだったに過ぎない。
フリウラの死を境に、親の態度は別人のように軟化した。
悲嘆に暮れるわしを継承者へ育てることを半ば諦め、代わりに空席となった島長の座を目指せばそれで十分だと方針を変えたのだろう。わしも、失意の中でその判断に甘んじた。辛く苦しい道のりを共に歩む片割れを失い、継承者を目指す理由も目的も無くなってしまった。
それから二年経ち、継承者を目指していたことなどすっかり忘れていたある夜、わしは戸を隔てた向こう側に父と母の会話を耳にする。
「もうあの子も十四になるか……」
「……結局、印は貰えんかったども、島長んないば安泰がね」
「まぁなぁ……目の上のたんこぶが死んだおかげで、なんとかなったいな」
しみじみと懐かしむ口ぶり。彼について語っていることはすぐに理解できた。そして父と母が彼の死をまるで良いことのように捉えていることも。
わしは胸の内に湧き出る怒りを堪え、静かに二人の会話を盗み聴いていた。
なんとなく予感があった。己の親でありながら、この二人はフリウラの死に何か関わりがあるのではないかと感じたのだ。
耳をそばだてていると、しばらくの沈黙の後に父が言った。
「あいつが海ん落ちたとき、『あ』っと思うたよ。『しめた』ってな」
母は相槌を打ったのだろうか、一拍の間を置いて父は続けた。
「次の長になる子供だっけぇ無理にでも助けようとする奴もいたが、俺はやめとけって止めたんだ。波も荒れていたし、道連れになるだけじゃてぇ――」
そこまで聴いて、わしは足音を忍ばせて戸から離れた。これ以上聞きたくなかった。
込み上げる言いようのない激情を口元に押し留め、一目散に浜へ走った。
――父はフリウラを見殺しにした……!
何故……とは思わなかった。下手に冴えた頭が父の意図を理解している。
フリウラが海に落ちたところまでは、本当に不運な事故だったのだろう。
だが、このまま彼がいなくなってしまえばいいという邪な考えが過ったに違いない。優秀な者が島から消えてしまえば、わしを継承者にできなくても、次の島長にできると考えたのだろう。
わしに才能がなかったから……継承者になれなかったから……彼は見殺しになった。
もし、わしが夜毎抜け出すこともせずに勉学に励んでいたら、今よりももっと実力を培うことができたかもしれない。脇目も振らず、命を賭けていたら、彼は助けられたかもしれないのだ。
わしの怠惰が、彼を殺した。
胸の中はぐちゃぐちゃだった。
飲んでも飲んでも海原が飲み込みきれぬのと同じように、後悔に溺れる日々が続いた。
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それから六十年。
わしは島長になったが、人生のほとんどを小屋に籠って過ごした。
今にして思えばあの日々は正気ではなかっただろう。継承者にはなれず、フリウラの死を乗り越えることもなく、過去に囚われながら無我夢中で研鑽に励み、親も死んでいなくなってからは家財一切を書物へと替えた。長としての役目も碌に果たさず、人として腐り果てていた。
掌は独学で刻み込んだ刻印を幾度も幾度も重ね、老齢の肌は魔呪術にいっそう爛れて化物じみた手になった。……いや、手だけではない。落ち窪んだ目、潮風に軋む髪、骨と皮だけの体。あのときのわしはどこを取っても化物そのものだっただろう。
そんな狂気の果てに、掌に刻んだ刻印は一度だけ神懸かりの術を発動した。それは禁忌の領域に踏み入っていただろう。術式を構築したわしでさえも全てを理解できておらず、またそれによる成果も予測できないほどに複雑なものであった。
老齢となり己の死期を悟ったわしが、自暴自棄であったからこそできたと言っていい。
六十年の間に塗り重ねてきた呪いは、成功の期待をしていないわしの目を光で焼いた。多層構造となっていた刻印の失敗作が、この時のみ、全ての歯車が噛み合い術式が発動したらしい。後にも先にもこの術式を再現することはできなかった。
全てを焼き尽くすような光に包まれ、わしの全身は骨も肉も焼き縮んでいく激痛が襲った。何が起きているのかわからず死を覚悟した。
――あぁ、ついに身を滅ぼすときが来たか……。
抵抗を諦め、業火に焼かれたかに思えたわしが意識を取り戻したとき、少女の姿となっていた。
――若返ったのか……?
体だけではない。小屋も、島も、世界全ての時が戻されていることを知った。わしは弾かれるように駆け出し、彼を探す。
時が戻っているのなら、フリウラがまだ生きているのではないかと考えたからだ。
島じゅうを駆け回り彼の姿を探した。だが、運命とはそう甘いものではないのだ。
海原へ漁に出ていた船も見える限り目を凝らしたが見つからず、夕暮れに戻ってきた一隻の船に最後の望みを賭けてフリウラが乗ってはいないかと探した。その脳裏では不穏な予感が鎌首を擡げていた。いつか彼を失ったのも、こんな年頃ではなかったか。
船から降りる男衆の面持ちはどこか暗く見えて、嫌な予感がどんどんと強まる。
最後の一人が浜に降りたとき、わしは悟った。その男が他でもない、わしの父であったからだ。
「……フリウラは、フリウラはおらんのか……?」
わしが訊ねると、父は悲しむような顔をして肩に手を添えた。予感が確信に変わる。
時を遡ったこの日は、まさにフリウラが死んだ日であった。
奇跡は起きた。だが運命は嘲笑う。
これまで乗り越えてきた数多の苦難や後悔。
そして手にした栄光も、積み上げた功績も。
全てが運命に決められているのだとしたら。
少女に戻り、それでも彼は助からないというのが定めなのならば、わしはこの取り戻した六十年を……残された時間を何に使えばよいのか……?
また島長となり、無益な努力を繰り返したとて、なんの意味がある……?
――否。
――断じて否。
支払った対価に見合うものはそんなものではない。
空いた島長の空席を蹴り、狂気の沙汰を歩んだ日々は継承者こそ相応しい。
彼に誓おう。
彼を殺した者達を一人残らず復讐し、わしは己の運命を変えてみせると。




