135話 言葉がある
――この娘にはもう手ごころは施した。尻尾を巻いて逃げることだってできただろうに、……それでも尚わしに挑むのなら死は免れん。
堰き止めていた時を進めると同時、柱時計の風防から熱線が放たれる。この光は龍の娘の体を焼き焦がすだろう。そしてウツロの逆鱗に触れ、袂を分ち殺し合うのだ。オロルはそう考えていた。
「月輪――」
縷々《るる》と娘の声が聞こえる。
放つ熱線の先、セリナは両腕に渾身の力を込め、不可視の門扉が左右にこじ開けられていた。
何が起きているのか。
この娘は何をしでかしたのか。
オロルは迸る光の向こうに目を凝らす。
セリナは空間を断裂させ、亜空間へ繋がる門を生じさせていた。柱時計から放たれる熱線はその無限の穴の内側へ呑み込まれ、セリナには届いていなかった。
そして熱線の全てを呑み込むと、静謐を保つ濃い闇の向こうから一振りの剣を取り出した。
「――竹取」
唇で小さく紡いだ言葉は剣の銘だろう。
『月輪・竹取』
亜空間から取り出されたその得物は、名が示す通りの月光にも似た燐光を纏っていた。淡い火の粉は焼けた鋳鉄の荒ぶる熱とは異なり、まるで夜の竹藪に舞う光虫の煌きのようである。
眩しい剣身は刃を立てるには太く鈍角で、それこそ若竹の幹に似て飾り気がない。燐光を纏う以外は円柱形の棒としか形容できなかった。
しかし、本能でわかる。
オロルはどちらかといえば理性の質だが、あの剣は『研ぎ澄まされている』。
幽けき夜闇を剣の形に押し込めたような威圧感は尋常ではない。柄を握る手を緩めればそこから闇が溢れ出て空を覆うのではないかという想像に囚われる。現に剣を手にした龍の娘の佇まいも別人のように超然として、握り込んだ指が硬く白んでいた。
「腕を叩き切れば納得するんだね……?」
見慣れぬ型。セリナはすっと背筋を伸ばしながら重心を低く蹲踞に構え、両手で柄を握る。「その棒で切れるものか」とオロルは言えない。時止めを挟み、可能な限り間合いから離れた。
そんなオロルの背に声がかけられる。
「捕らえたぞ」
静止空間内で他者の声を耳にするほど恐ろしいことはない。オロルは背筋を粟立てて振り返る。少し離れたところでウツロのくり抜かれた眼窩と視線がかち合った。
「日緋色金が触れている」
「そのようじゃな」
淡々と告げるウツロの言葉の意味を、オロルはすぐに理解する。
柱時計に天秤剣の欠片が突き立てられたのだ。こうなってしまえば探して取り除くことも難しいだろう。だが時止めを共有するウツロは攻めてくるどころか体を動かせないようだった。
「ふむ……神器同士の接触では介入できるのは意識までか」
神器同士の接触と身体の接触では条件が違う。
ウツロは静止空間内に侵入できていない。……だというのに、ウツロはそれで構わないとでも言いたげな態度で気安く話しかける。
「らしくないな。俺とお前が戦う必要なんてないことを、本当はわかっているだろう」
「知ったようなことを抜かすな能無しが。少し見ない間に随分と賢ぶるようになったものじゃな」
「オロル――」
「その金ぴかの頭に少しでもものが詰まっているというのなら考えるんじゃな、なぜわしがお主と戦うのか。……それでなければ娘の方がまだ救いようがあるわ」
停戦の呼びかけも虚しく、オロルはウツロを突っぱねる。……が、これはオロルなりの本音であろう。
ウツロは静止空間内で素直に沈思する『なぜわしがお主と戦うのか』。
救い出すのがこちら側の都合なら、それを拒まねばならないオロル側の都合というものがある。それは何か。
実はオロルはその答えも伝えていた――『継承者であるわしが、黙って従うわけにはいかん』――言葉通りに受け止めれば、神殿のために戦い、使命を全うしているのだと考えられるが、そうではない。そうではないのだ。
何か得心に至ったか、ウツロの視線が心なしかオロルを睨んだ。
「……無駄じゃ。身動きの取れんお主に出来ることはない」
「あるさ」ウツロはきっぱりと言った。「言葉がある」
ウツロが懐に忍ばせていた言葉。
それは停戦の呼びかけではない。
「あまのはかりのつるぎはあくにかたむいた――」
天秤剣は悪に傾いた。
我が掌零る魂魄を掬い給へ。
善の上皿昇るならば、
我の誓に能う裁定を果し給へ。
この剣を振り上げし時、
我は科人に永久の生を祈らん。
誇り高き長女継承の奥義詠唱を、ウツロは一言一句間違うことなく誦じて見せたのである。
斥力を司る術式が静止空間に差し込まれ、両者の魔呪術がぶつかり合い、わずかにウツロの詠唱が勝った……!
時止めが強制的に解除され、機械仕掛けの術式が音を立てて砕け散るとナルトリポカ集落跡地の地盤がごっそりと沈下する。下方へ向かう強力な重力が足下で展開され、底の見えない穴が待ち受ける。
「なに……!?」これにはオロルも驚きを隠せない。
三者はすでに奈落に身を投げている。すぐ横にある崖に手を伸ばす猶予もなく体は浮遊感に包まれ、落下を始めた。誰よりも先に下へ姿を眩ましたのはオロルである。これは失態であった。ほとんど反射的にオロルは己の窮地から脱するために時の流れを絞ってしまったのだ。後の先を取るために前線で培った行動であるが、今回ばかりはウツロの術中に嵌められた。
落下しているこの状況で時を操れば、ウツロとセリナは空中で静止し、落下の距離は相対的に短くなる。オロルが時間を絞るほど柱時計は地面を求めて奈落へ落ちて行き、それに気付いて時止めを解除したときには二人との距離は見上げるほどに遠くなっていた。
「しまった……!」
漏れた言葉が上空へ置き去りになり、耳に届いたセリナとウツロが鬨の声を揃える。
逃げ場のない奈落にて、最早オロルに術はなかった。
「その腕――」
「――貰った!」
思わず助けを求めて伸ばした両手。風が手袋を攫い、爛れた皮膚に覆われた己の手が露わになる。
斧槍と竹刀の剣閃がオロル目掛けて駆け抜ける。




