133話 相変わらず元気そうじゃな
❖
ナルトリポカ集落跡地ではオロルが一人、ぼんやりと空を見上げていた。
纏う衣装は長旅を共にした曼荼羅模様の外套ではなく、神殿お誂えの白衣である。残暑の日差しに眩しく照り映えた上着を羽織り、腕を通していない袖がはたはたと風に躍っている。
「……祈りの火じゃ。これを飲めば願いが叶う……」
空を見上げたまま呟く。
誰かに向けた言葉ではない。オロル自身に向けられた彼の言葉を手持ち無沙汰に転がしている。
煤の取れない煉瓦積みの塀に腰掛け、靴を地面に脱ぎ散らかして裸足を揺らす。
「……女神の御呪がに。火ば石ん宿したら、そいが護っちくれる……」
普段のオロルらしからぬ、物思いに耽る少女然とした姿がそこにあった。
ナルトリポカのこの地は、以前は集落の広場であった。
禍人の奇襲に畑を焼かれ、家屋を焼かれ、命を焼かれた。
斃れた者達の亡骸をアーミラが弔って久しい。今では遺灰も供養されたか、はたまた風に流されたか消え去っている。焦げ付いた壁面と粉を吹いたように汚れた灰の名残が灰燼に帰した景色を黒白に染めている。目を閉じればまだ焼けた臭いが香ってくるようだった。
なんの目的でオロルはここにいるのか。まるで待ち合わせているような態度でその場から離れず、時折あたりを見回しては、また空を見上げていた。
「む……来たか」
不意にオロルの声が鋭くなり、金色の目が細められる。
見上げている雲の向こう、きらきらと輝く彗星が昼の空を滑っている。
オロルはやおらに立ち上がると、その飛翔する者へ向けて手を振った。
南方より飛来したその彗星は手を振る者に応えたか、不意に速度を緩めると急降下を始めた。点の大きさが近づくにつれて渡り鳥程になり、人の形を判別できたときには地鳴らしの衝撃が臓腑を揺らした。
「相変わらず元気そうじゃな」
待ち人の到来に跳ねた土を払って、オロルは予期していたものが予期した通りに現れたとでもいう風に特段の驚きもなく出迎えた。
「やっぱりオロルじゃないか」日緋色金の頭骨を据えた鎧が声を弾ませて再会を喜ぶ。「丁度良かった。……ガントールは一緒じゃないのか」
「すまんがわし一人じゃ」オロルは短く応える。
「そうか……神殿から連れ出しに来たんだ。こんなところにいるなんて、見逃すところだった」
オロルが手を振って居場所を示したから気付けたが、そもそもとして、なぜ他に誰もいないのか、こんな場所で何をしていたのか、空から会話を見下ろしていたセリナはふと疑問が湧いた。まるで待ち構えていたみたいじゃないか……。
僥倖に安堵するウツロは無警戒に歩み寄る。セリナが兄の油断を咎めた。
「待ってお兄ちゃん!」
その声とほぼ同時、ウツロは不意に現れた巨腕の横薙ぎによってオロルの間合いから吹き飛ばされる。丸太のようなそれが勢いよくウツロの左頬を叩き、爆ぜた火花の明滅が一撃の重さを語っていた。
広場は灰を舞い上げて視界不良となり、煙った集落跡地の中で瓦礫が崩れる音が響く。いくつもの軒を薙ぎ倒してウツロは広場の離れまで飛ばされてしまった。何が起きたのか、セリナはかろうじて目で追えていた。
気を許し接近したウツロに、三女継承が攻撃を仕掛けてきたのだ。
八本の太い柱を召喚し、ウツロに重い一撃を見舞ったのである。衝撃にウツロの体は容易く殴り飛ばされて火花を散らし、きりもみしながら瓦礫を貫いて姿が見えなくなった。
ぐるりと回転の名残を残し、八本の柱がその全容を顕現させると、ずしん。と大地に脚を降ろす。セリナはこれが三女継承者の神器『柱時計』だと遅れて理解する。言葉に聞くその神器の外見は、セリナの知る時計とはかけ離れており、どちらかといえば蜘蛛のようだった。祭りの山車や近代芸術として制作された意図的な異形の絡繰、機械仕掛けの巨大な蜘蛛……。
オロルは蜘蛛にぶら下がり、八本の脚がウツロへ追撃に移る。
「させない……!」
戦闘を止めるためにセリナは咄嗟の判断でオロルに攻撃を仕掛ける。が、背後を捉えたと確信した次の刹那には姿を見失い、戸惑う背中に向けて足癖の悪い踵落としを喰らった。焼けこげた家屋の瓦礫に叩きつけられてウツロの横に倒れる。焼け残りの瓦礫に倒れるまでの全ては一瞬の出来事で、セリナには何が起きたのか信じがたかった。雷にでも打たれた気分だ。
凄まじい速度で繰り出された一撃……もしこれが踵でなく神器の柱であったら……鎧の体でさえ起き上がれない一撃をまともに喰らっていたら脊椎が圧し折れていただろう。
痺れる身体でなんとか起き上がり、呼吸を整えて三女継承を睨むセリナ。オロルは毒虫でも見るような目で眺め下ろす。
「龍の翼に、尾っぽに、頭角。……災禍の龍にしては弱いのぅ。今日は鎧の中に隠れんのか?」
「……煽らないでよ……腹が立つから」
これから助けに行くはずの相手に痛めつけられて、セリナは苛立ちを隠せない。
「腹据えかねて結構」
そう言ってオロルは固めた拳でセリナの頬を殴打する。白い手袋の内側に収められた彼女の手は節くれ立って硬くごつごつとしていた。石を詰めた雑嚢で叩かれているみたいにセリナの頬は腫れ、視界には星が散った。
曲がりなりにも大義のため、蚩尤の野望を砕くためとはいえ、目の前の継承者は数多くの同胞を殺したことには変わりないのだ。助けてもらう立場なら、もっともらしく神殿の奥で手足でも縛られていてくれればいいのに。追われる身となった次女継承や昏睡状態の長女継承はまだ助け甲斐があるというもの。なのにこの三女継承は憎らしく待ち構え、いきなり攻撃を仕掛けるとはどういう了見なのだろうか。
「ところで聞きそびれたんじゃが、ウツロはお主を見てアーミラを裏切り、お主と共に神殿に現れた。……何者じゃお主は?」
「……殴る前に聞いて欲しいね」セリナは唇にできた裂傷を指で拭い恨み節を言い、名乗った。「セリナ・ニァルミドゥ……二百年ぶりに再開した。私はウツロの妹だよ……」
「……は? 妹、妹か――」
オロルは片眉を吊り上げた後、さして面白くもない冗談が笑壺に入ったみたいにくつくつと笑い出す。
「こりゃ予想できん。あの鉄の塊に妹がいるとはのぅ……。
お主、血を分けたか」
「血は……」セリナの表情が曇る。「どうだろうね」
「じゃろうな。……なかなかどうして、なんの巡り合わせかのぅ。
まぁよい。ウツロ、お主もよく聞け」
オロルの声にウツロは瓦礫を押し除け上体を起こす。これしきでくたばったわけではない。
「お主らはわしを連れ出しに来たと言ったな。じゃが儂が、継承者であるわしが、黙って従うわけにはいかん」
「継承者だからこそ戦ってる場合じゃないんだ――」
ウツロの言葉に聞く耳を持たないとオロルは首を振る。
「黙っておれ。禍人共が今更なにを企てようとも無駄じゃ」
「蚩尤はあんた達全員を騙してる! あのアーミラって人だって酷い仕打ちだったでしょう!?」
セリナも説得を試みるが、オロルは掌を向けて制するのみ。
「不毛じゃ。主らは敵に言葉を尽くしたか? それで戦が終わったか? 違うじゃろう。わしも、主らも、問答無用で殺し合ってきたではないか。
わしを従わせたくば捩じ伏せ、腕の一本でももぎ取って見せよ」




